伊藤沙莉さんが主役を演じて話題となった2024年前期の朝ドラ『虎に翼』。
彼女が演じる寅子のモデルは、日本初女性弁護士の一人であり、女性判事であり、家庭裁判所長を務めた三淵嘉子(みぶちよしこ)です。
昭和15年(1940年)という戦前の時期に司法試験に合格した彼女。
女性であるがゆえの困難に何度も直面しながら少年少女たちを助け、さらには後に続く女性法曹のためその道を走り続けた――なんて言うと、いかにも弁の立つ手厳しいタイプの人物を思い浮かべてしまうかもしれませんが、むしろその逆でした。
会う人が誰でも好きになってしまうような、朗らかな女性だったとされます。
昭和59年(1984年)5月28日はそんな彼女の命日。
朝ドラ『虎に翼』により、日本中から注目されるようになった三淵嘉子とは一体どんな人物だったのか?
生涯を振り返ってみましょう。

三淵嘉子/wikipediaより引用
名を為さんと、法の道へ
大正3年(1914年)11月13日、シンガポールにて、台湾銀行に勤める武藤貞雄とその妻・ノブに長女が生まれました。
シンガポールの漢字表記である「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられたその少女。
九星学における強運の星である「五黄の寅」に生まれたと、本人も周りに語っていたそうです。
夫妻にとっては初の子であり、その後、三人の弟に恵まれました。
きょうだいの中で最も活発で、頭が良いのが嘉子でした。
両親共に「この子が男であればよかったのに」と語ることはしばしばあったそうで、嘉子は東京府青山師範学校附属小学校を卒業すると、東京女子高等師範学校附属高等女学校を出ます。
澄んだ声で歌い、絵も上手に描ける。
そんな学校でも人気者の嘉子に対し、父は「女性でも仕事をするように」と語っていました。
貞雄の先祖は丸亀藩・御側医の家柄で、かつては貞雄も医者になることを期待されたことがあります。
父の願いを叶えるため、嘉子は女医を目指したいと思いました。
しかし、血を見るのがどうしても苦手……。
ならば弁護士はどうか。
そう考えた嘉子は昭和7年(1932年)、東京で唯一、女子でも法律を学ぶことができる明治大学専門部女子部法科に、四期生として進学します。

明治大学の専門部女子部開校式(1929年4月28日)/wikipediaより引用
しかし当時の女子教育は良妻賢母を目指すためのもの。
女学校の教師は驚き「嫁の貰い手がなくなる」として引き止めようとし、法事のため丸亀に出かけて留守にしていた母も、娘の決定を聞くと泣き出しました。
周囲も、嘉子の決断を奇妙なものとみなします。
「この家には法律を学ぶ女がいるんだと」と話しつつ、家の前を男子学生が通り過ぎてゆくこともあったとか。
明治大学法学部を卒業 日本初の弁護士となる
明治大学専門部女子部には、下は十代から、上は四十代まで、百人ほどの学生がいました。
入学者は大学側の想定よりも少ない上に、その後も結婚等でどんどん生徒が減ってゆきます。
昭和10年(1935年)に女子部を終えた嘉子は、明治大学法学部に入学。
武藤という姓から「ムッシュ」と呼ばれる人気者で、男女あわせても成績は首位でした。
大学では女子ばかりが固まって行動していたものの、いざ試験となると男子学生がカンニングをせっついてくるほど、彼女の優秀さは際立っていたとか。
そして昭和13年(1938年)、ついに嘉子は首席で卒業を果たし、高等試験司法科試験を受験します。
このとき嘉子は、試験の待合室で疑念を抱きました。
高等試験合格者には、本来ならば
・弁護士
・検察
・警察
という三つの道が開かれているはずです。
ところが弁護士以外は「日本帝国男児に限る」という規定がありました。
女は結婚して家庭に入るから務まらない――そんな当時の慣習に沿うもので、法的根拠などありません。
同じ試験に合格しても、女子は道が閉ざされてしまう。
その理不尽さに怒りが猛然とこみあげてきます。嘉子が男女の不平等を強く感じた瞬間でした。
試験のあと、嘉子は家に戻ると泣き崩れ、不合格だと嘆いていたそうです。
しかし発表されると、そこには以下の三名の名も含まれていました。
中田正子
久米愛
武藤嘉子
日本初の女性弁護士となる三名でした。

中田正子(左)と久米愛/wikipediaより引用
中田は前年に筆記試験には合格していながら口述試験で落とされていました。
後年、試験官が「女だてらに生意気だから落とした」と語っていたと伝わっています。
和田芳夫と結婚するも、夫は戦地へ
昭和15年(1940年)、嘉子は第二東京弁護士会に弁護士登録をし、中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士の一人となりました。
とはいえ、そう簡単に仕事は入ってきません。
依頼人が「黒」であっても「白」とせねばならないような弁護士の仕事は、嘉子にとって辛いこともありました。
仕事も得られず、結局、嘉子が弁護士になってからの大きな決断は、結婚でした。
昭和16年(1941年)、嘉子は武藤家に一時期下宿していたことのある和田芳夫への好意を両親に告げます。
彼は貞雄の親友の甥にあたり、明治大学の夜間部で学んだのち、メリヤス工場に勤めていました。
武藤家には下宿人が数多くおり、その中から嘉子は彼を気に入ったのです。
一番おとなしくて優しい芳夫の名前を嘉子が挙げると、両親は驚きました。
強気で活発な嘉子とはまるで正反対のタイプに思えたのです。「交際しているのか?」と尋ねると、嘉子は何もないと否定しました。
貞雄は芳夫のもとへ向かい、娘が気に入っていることを告げました。
こうして親公認のもとで交際が始まるものの、嘉子はなかなか結婚を言い出さない芳夫に不満だったそうです。
それでも11月、二人は結婚します。
芳夫は妻に理解があり、結婚後も仕事を辞めるようには言いません。
夫妻は武藤家を離れ、池袋で暮らし始めました。
しかしそのわずか一月後、日本軍が【真珠湾攻撃】を強行します。
泥沼化していた【日中戦争】は終結どころか拡大し、ついにはアメリカやイギリスとまで敵対することとなったのです。

真珠湾攻撃で上空を飛行する九七式艦上攻撃機/wikipediaより引用
夫、母、父と立て続けに起こる不幸
激しくなる戦局は、ありとあらゆる局面に暗い影を落としました。
嘉子は離婚の案件を引き受けることもあったものの、夫が出征し、訴訟そのものが取りやめになるようなこともままありました。
明治大学で引き受けていた講義は、授業そのものがなくなってしまい、防火や救護訓練が優先されてゆきます。
昭和18年(1943年)1月、夫妻の間に芳武が生まれました。
夫妻は池袋を出て武藤家に戻ります。戦争の最中ではあるもの、優しい春の日のような夫婦生活がそこにはありました。
昭和19年(1944年)、芳夫のもとに召集令状が届きます。
しかし結核による肋膜炎のあとがあったため、徴兵は免れました。
6月、武藤家の長男であり、嘉子の弟である一郎が戦死しました。輸送船を魚雷に直撃されたのです。
妊娠中の妻を残しての出征であり、あとには妻の嘉根と生まれたばかりの娘が残されたのでした。
すると昭和20年(1945年)、再び芳夫のもとに召集令状が届きます。芳夫は病弱であり、戦場に立てば帰れるとは思えない。
嘉子は息子と義妹とその娘と共に福島県会津坂下町へ疎開。ツテを頼っての疎開で待っていたのは、雨漏りのするボロ小屋での辛い生活でした。
この年の8月、日本は敗戦を受け入れます。
すると翌昭和21年(1946年)、戦地で肋膜炎を患い、戦場には立つことのなかった芳夫が帰国し、長崎の病院に入院しました。
その報告は、嘉子の父の本籍地である香川県丸亀に届いていました。
嘉子が急いで駆けつけようとするも間に合わず、死に目にあうことすらできぬまま、嘉子は夫を失ってしまうのです。
不幸は続くもので、この後も嘉子は大事な人を失い続けます。
昭和22年(1947年)1月に母のノブが脳溢血で亡くなると、同年10月には父の貞雄も肝硬変で死去。
嘉子は泣き続けるばかりの日々を過ごすことになりました。
亡父の工場は軍需産業であったため、閉鎖するしかありませんでした。
日本国憲法に励まされ、法の道へ
嘉子は明治大学で民法の講師を務めました。
給与はとても足りない状況です。
そんな嘉子にとって、大きな希望となったのは日本国憲法でした。
女子が家の鎖から解き放たれ、自由な人間として、スックと立ち上がったような思いがして、息を呑んだ――そう振り返っています。
男女平等と掲げられたこの新憲法は、嘉子が感じていたあの不満への答えでもありました。
新憲法のもとでは、女性でも判事になれるのではないか?
そう決意を固め、昭和22年(1947年)3月、嘉子は霞ヶ関へ。
裁判官採用願を司法省に提出します。
しかし、裁判官になるにはしばらく待つようにと、人事課長・石田和外(かずと)に諭されてしまいます。
悔しがる嘉子に、法の知識を活かす別の仕事が持ちかけられました。
このころ日本は新憲法のもとでの民法改正が急務となっていて、同年12月、司法省へ嘱託として採用されたのです。
その改正案を読み、嘉子は目の前が晴れるような思いがしました。
女性が解き放たれ、自らの足で立ち上がるような法がそこにはありました。
はじめて民放を学んで以来、女性を縛る法に地団駄を踏んできた嘉子。
それがやっと終わるという思いが湧いてきました。
GHQとの折衝を交えながら民法改正の作業は続き、昭和23年(1948年)1月、ついに新たな民法が施行されたのでした。
戦災孤児を救うにはどうすべきか
昭和23年(1948年)、最高裁判所が発足しました。
嘉子はまだ裁判官にはなれないものの、最高裁民事部事務官となり、家庭局が創設されるに伴い初代の家庭局局付に就任します。
この最高裁民事部会議において、家庭裁判所が設置されることが決まりました。
「家庭」とつくことに、嘉子は喜びました。
弱い立場の女性や子どもを守る組織になるのではないか――素晴らしい時代が始まると思えた嘉子は希望を抱きました。
戦争が終わったとはいえ、当時の日本は混乱の最中にあります。
弱い者が割を食う社会の中、戦災孤児をどうするのか。その対応は急務でした。
彼らは飢えに苦しみ、寝場所もなく、収容施設にしたってどこも満員状態で、劣悪な環境の中を生きていました。

昭和25年(1950年)に銀座で撮影された戦災孤児/wikipediaより引用
家庭裁判所は、そんな子供たちを救うことを目指していたのです。
昭和24年(1949年)年1月、嘉子は最高裁家庭局事務官に任じられます。
その中心にいた家庭局長の宇多川潤四郎はかなり独特の人柄で、人情に篤い人でした。ちょび髭がトレードマークで、気合を入れるために滝行をすることもある、どこか変わった人物だったといいます。
彼の考え方は、明治時代以来の大日本帝国憲法が考える司法とはほど遠いものです。
親しみがもて、少年を教え導くような家庭裁判所を宇多川は掲げていました。ユーモラスでやさしく、少年を守ることに全てを捧げると決意を固めていました。
彼は何かあると自宅の風呂場で水を浴びる願掛けをよくしていました。ついには多摩で滝に打たれたこともあります。猪突猛進、愛すべき人物でした。
嘉子はそんな宇多川のもと、えくぼのある丸顔に笑みをたたえ、宇多川のもとで働くのでした。
愛にあふれた家庭裁判所をめざして
家庭局はそれまでなかった気風があり、異端でもあり、軽んじられる傾向がありました。
そんな家庭局をあたたかく見守る人がいました。
初代最高裁長官の三淵忠彦です。
彼は悲運の幕末会津藩家老・萱野権兵衛長修を先祖に持ちます。会津戦争の責任を負い、自刃した人物です。
一度は裁判官をやめ、弁護士を務めていたものの、戦後に復帰して最高裁初代長官となっていました。
もう一人の秘書課長・内藤頼博は、ハンサム、ダンディ、背が高く、ともかくおしゃれでモテていたと周りから回想されている人物です。
彼は高遠藩主の血筋であり、戦前は子爵。「殿様判事」と呼ばれていました。
内藤は戦前、アメリカで視察した家庭裁判所を念頭におき、これぞ日本に必要だと確信していたのです。
当時の日本は、戦争の影響も酷く、家庭内の問題が山積みでした。
親が亡くなった遺児を養子とする願い。
戦前は認められなかった母の親権を求め、我が子を引き取りたいと女性が訴える願い。
抑留から帰還した夫との婚姻関係をどうするのか。
数多の複雑な問題を、発足して間もない家庭裁判所が引き受けるのですから、目の回るような忙しさです。
それでも懇切、丁寧、なごやかに、愛のある裁判所として皆応対を続けました。
柔らかい物腰とあたたかい声をもつ嘉子は、家庭裁判所の象徴ともいえる一人でした。
しかし、女性法律家の先駆者である自分が、家庭裁判所に拘泥し続けたら、後進の道を狭めるかもしれない――彼女はそう思ったのか、次の異動には、家庭裁判所以外を希望したのでした。
日本の女性法律家代表として女性を救うため
いったい女性を縛り付けるものは何なのか。
嘉子は考え続けました。
女性は弱いもの、優しいものと決めつけて、道を狭めることも偏見だと彼女は理解していたのです。
昭和24年(1952年)、嘉子は名古屋地方裁判所で初の女性判事となりました。
幼い息子のためにお手伝いさんを雇いながら、嘉子は名古屋地裁で最も目立つ判事となってゆきます。
このころ嘉子は、運転免許証取得を目指したそうです。
しかし何度も試験に落ち続け、ついには道路脇の草むらに車を突っ込ませ、断念したとか。
嘉子は裁判所のトイレで、老婦人に剃刀を向けられたこともありました。このとき、このせいで女性は裁判官に向いていないと思われるのではないかと、嘉子は気に病んでいたそうです。
昭和25年(1950年)、嘉子は視察のために渡米します。
クロスという女性判事がいる家庭裁判所には、食堂や寝室、託児所までありました。嘉子は大いに感銘を受けたことでしょう。
帰国後、彼女はGHQ法務部の女性弁護士であるスターリングに呼び出され、日本でも女性法律家の組織を作るよう持ちかけられます。
こうして「日本婦人法律家協会」が組織され、初代会長は久米愛、嘉子は副会長に就任しました。
女性法律家が団結し、力を見せてくると、余計な圧力もかかります。
昭和26年(1953年)、三淵の後任者である二代目最高裁長官・田中耕太郎は、座談会で「女性こそ家庭裁判所裁判官が相応しい」と言います。
嘉子はすかさず反論しました。
それは個人の特性であって、性別によるものではない。
嘉子は女性を救うことを願い、女性ならではの問題を解決する意思はありました。
しかし、同時に女性差別にも敏感です。女性が偏見に押し込められようとすると、柔らかく毅然とした言い方で反論したのです。
そしてこの歳の帰米後、もうひとつの出来事もありました。
嘉子の恩人である三淵忠彦が亡くなったのです。
その三淵家を訪れるうちに、忠彦の長男である乾太郎と親しくなります。嘉子の8歳上である乾太郎は、妻を亡くしていました。
二人は昭和31年(1956年)8月、再婚を果たします。
原爆裁判――原爆投下は国際法違反である
この歳、東京地裁判事となった嘉子は「原爆裁判」を担当することとなります。
広島・長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた裁判です。

広島原爆の爆心地で撮影された一枚/Wikipediaより引用
GHQは原爆の被害を隠蔽し、矮小化しようとしていました。
そんな時代に、この裁判は政治的にも重要な意味を持ちます。
損害賠償請求は棄却されるものの、最後に異例の長い言葉が述べられ、その被害の甚大さ、非人道性が述べられました。
日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言した画期的なものであったのです。
その重要性ゆえか、嘉子は息子にすら詳細を語らなかったといいます。
精いっぱい働き、精いっぱい生きた生涯
この裁判のあと、嘉子は昭和37年(1962年)12月より、東京家庭裁判所判事となります。
社会は変貌していました。かつては哀れみの目で見られ、必要悪とされた少年犯罪も、戦争が遠ざかりつつあるこの時代ともなると、甘えとみなされるようになっていたのです。
嘉子も変わっています。ますますゆっくりと諭すように話しかけるようになっていました。
嘉子は少年部で計5000人超の少年少女の審判を担当。
説諭の際に涙を流す少年たちも少なくなかったといいます。
嘉子は後輩の女性法律家に「泣いてはいけない」としばしば伝えていました。
しかし、法廷では感極まって涙ぐむこともありました。それは彼女の弱さではなく、優しさゆえのことでした。
昭和40年代ともなると、家庭裁判所はさらなる問題に直面します。
過熱する学生運動をふまえ、少年法対象年齢の引き下げ議論が高まったのです。
そんな中意見を求められる場では、嘉子は柔らかくきっぱりとした口調で、自分の意見を述べていた姿が記録されています。
そして昭和47年(1972年)6月、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となりました。
少年をあたたかく諭し、導くやさしさはこのときも存分に発揮されました。
以降は、浦和地裁の所長を昭和48年(1973年)11月から務め、5年後の昭和53年(1978年)1月には横浜地裁の所長に就任。
どこへ行っても菩薩、お母さんのような優しさを見せる人として嘉子は慕われています。
そして昭和54年(1979年)年11月、嘉子は退官します。
赤いベレー帽をかぶり、ベージュのスーツで去る嘉子の姿はマスメディアにも取り上げられました。
日本初の女性法律家は、優しい笑顔で去り……と、それでも休むことなく、日本婦人法律家協会の会長に就任すると、労働省男女平等問題専門家会議の座長をつとめています。
昭和55年(1980年)1月には、再び弁護士となりますが、その3年後、嘉子は体調に異変を覚えます。
骨肉腫でした。
女性法曹として常に走り続けてきた彼女にも、ついに休息のときが訪れます。
「私は精いっぱい働きたい。死ぬときは『ああ、私、精いっぱい生きた』と思って死にたいの」
嘉子はそう語っていました。そう望んだ通りの一生だったことでしょう。
昭和59年(5月28日)、69歳で逝去。
遺言により分骨され、和田家と三淵家の墓におさめられました。
★
三淵嘉子の実弟である武藤泰夫氏は、姉のことを「まるで『とと姉ちゃん』だ」と語っています。
2016年に放映された朝ドラであり、そのタイトルには「父(とと)であり姉である」という意味が込められています。
父を亡くし、きょうだいを率いたヒロインの姉をこう呼んだのです。
それから8年後、その姉はついに『虎に翼』のヒロインとして、朝ドラの主役を務めることになりました。
『虎に翼』とは、どういう意味があるのか?
ただでさえ強い虎が翼を得たら、ますます強くなる――。
そんな意味の『韓非子』由来の言葉です。
やさしく強い寅子の活躍は、令和の日本に元気と優しさを届けています。
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【参考文献】
清水聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(→amazon)
清水聡『家庭裁判所物語』(→amazon)
他





