三淵嘉子

三淵嘉子/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

『虎に翼』モデル三淵嘉子の史実~日本初の女性法曹は「精いっぱい働き生きた」

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日本の女性法律家代表として女性を救うため

いったい女性を縛り付けるものは何なのか。

嘉子は考え続けました。

女性は弱いもの、優しいものと決めつけて、道を狭めることも偏見だと彼女は理解していたのです。

昭和24年(1952年)、嘉子は名古屋地方裁判所で初の女性判事となりました。

幼い息子のためにお手伝いさんを雇いながら、嘉子は名古屋地裁で最も目立つ判事となってゆきます。

このころ嘉子は、運転免許証取得を目指したそうです。

しかし何度も試験に落ち続け、ついには道路脇の草むらに車を突っ込ませ、断念したとか。

嘉子は裁判所のトイレで、老婦人に剃刀を向けられたこともありました。このとき、このせいで女性は裁判官に向いていないと思われるのではないかと、嘉子は気に病んでいたそうです。

昭和25年(1950年)、嘉子は視察のために渡米します。

クロスという女性判事がいる家庭裁判所には、食堂や寝室、託児所までありました。嘉子は大いに感銘を受けたことでしょう。

帰国後、彼女はGHQ法務部の女性弁護士であるスターリングに呼び出され、日本でも女性法律家の組織を作るよう持ちかけられます。

こうして「日本婦人法律家協会」が組織され、初代会長は久米愛、嘉子は副会長に就任しました。

女性法律家が団結し、力を見せてくると、余計な圧力もかかります。

昭和26年(1953年)、三淵の後任者である二代目最高裁長官・田中耕太郎は、座談会で「女性こそ家庭裁判所裁判官が相応しい」と言います。

嘉子はすかさず反論しました。

それは個人の特性であって、性別によるものではない。

嘉子は女性を救うことを願い、女性ならではの問題を解決する意思はありました。

しかし、同時に女性差別にも敏感です。女性が偏見に押し込められようとすると、柔らかく毅然とした言い方で反論したのです。

そしてこの歳の帰米後、もうひとつの出来事もありました。

嘉子の恩人である三淵忠彦が亡くなったのです。

その三淵家を訪れるうちに、忠彦の長男である乾太郎と親しくなります。嘉子の8歳上である乾太郎は、妻を亡くしていました。

二人は昭和31年(1956年)8月、再婚を果たします。

 


原爆裁判――原爆投下は国際法違反である

この歳、東京地裁判事となった嘉子は「原爆裁判」を担当することとなります。

広島・長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた裁判です。

GHQは原爆の被害を隠蔽し、矮小化しようとしていました。そんな時代に、この裁判は政治的にも重要な意味を持ちます。

損害賠償請求は棄却されるものの、最後に異例の長い言葉が述べられ、その被害の甚大さ、非人道性が述べられました。

日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言した画期的なものであったのです。

その重要性ゆえか、嘉子は息子にすら詳細を語らなかったといいます。

 


精いっぱい働き、精いっぱい生きた生涯

この裁判のあと、嘉子は昭和37年(1962年)12月より、東京家庭裁判所判事となります。

社会は変貌していました。かつては哀れみの目で見られ、必要悪とされた少年犯罪も、戦争が遠ざかりつつあるこの時代ともなると、甘えとみなされるようになっていたのです。

嘉子も変わっています。ますますゆっくりと諭すように話しかけるようになっていました。

嘉子は少年部で計5000人超の少年少女の審判を担当。

説諭の際に涙を流す少年たちも少なくなかったといいます。

嘉子は後輩の女性法律家に「泣いてはいけない」としばしば伝えていました。

しかし、法廷では感極まって涙ぐむこともありました。それは彼女の弱さではなく、優しさゆえのことでした。

昭和40年代ともなると、家庭裁判所はさらなる問題に直面します。

過熱する学生運動をふまえ、少年法対象年齢の引き下げ議論が高まったのです。

そんな中意見を求められる場では、嘉子は柔らかくきっぱりとした口調で、自分の意見を述べていた姿が記録されています。

そして昭和47年(1972年)6月、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となりました。

少年をあたたかく諭し、導くやさしさはこのときも存分に発揮されました。

以降は、浦和地裁の所長を昭和48年(1973年)11月から務め、5年後の昭和53年(1978年)1月には横浜地裁の所長に就任。

どこへ行っても菩薩、お母さんのような優しさを見せる人として嘉子は慕われています。

そして昭和54年(1979年)年11月、嘉子は退官します。

赤いベレー帽をかぶり、ベージュのスーツで去る嘉子の姿はマスメディアにも取り上げられました。

日本初の女性法律家は、優しい笑顔で去り……と、それでも休むことなく、日本婦人法律家協会の会長に就任すると、労働省男女平等問題専門家会議の座長をつとめています。

昭和55年(1980年)1月には、再び弁護士となりますが、その3年後、嘉子は体調に異変を覚えます。

骨肉腫でした。

女性法曹として常に走り続けてきた彼女にも、ついに休息のときが訪れます。

「私は精いっぱい働きたい。死ぬときは『ああ、私、精いっぱい生きた』と思って死にたいの」

嘉子はそう語っていました。そう望んだ通りの一生だったことでしょう。

昭和59年(5月28日)、69歳で逝去。

遺言により分骨され、和田家と三淵家の墓におさめられました。

三淵嘉子の実弟である武藤泰夫氏は、姉のことを「まるで『とと姉ちゃん』だ」と語っています。

2016年に放映された朝ドラであり、そのタイトルには「父(とと)であり姉である」という意味が込められています。

父を亡くし、きょうだいを率いたヒロインの姉をこう呼んだのです。

それから8年後、その姉はついに『虎に翼』のヒロインとして、朝ドラの主役を務めることになりました。

『虎に翼』とは、どういう意味があるのか?

ただでさえ強い虎が翼を得たら、ますます強くなる――。

そんな意味の『韓非子』由来の言葉です。

やさしく強い寅子の活躍は、令和の日本に元気と優しさを届けています。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
清水聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(→amazon
清水聡『家庭裁判所物語』(→amazon

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