長寛2年(1164年)8月26日は崇徳天皇が亡くなった日です。
この方の名前から連想されるのは【日本三大怨霊の一人】か、もしくは【百人一首の歌人】か、二つに一つでしょう。
なぜこれほどまでかけ離れたイメージなのか?
というと、その生涯があまりにも落差の激しいものだったからです。
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実父は祖父にあたる白河天皇だった?
今回は、天皇と上皇と法皇が色々と登場します。
時期によって変えると非常にややこしいので、退位後も”天皇”で統一させていただきますね。
先に即位の順だけ記しておきますと、
第72代 白河天皇
↓
第73代 堀河天皇
↓
第74代 鳥羽天皇
↓
第75代 崇徳天皇
↓
第76代 近衛天皇
↓
第77代 後白河天皇
となります。
上記のとおり、崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。
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が、この時点で既に不遇が始まっていました。
崇徳天皇の母がかつて白河天皇に仕えていたため、鳥羽天皇ではなく白河天皇の子供だと思われていたのです。
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なんせ当の鳥羽天皇がそう信じ込んでいたといわれているくらいなので、周囲も同調していたでしょう。
崇徳天皇ご本人には責任がないのにひどい話です。
しかもこの時代によくあることで、先代の天皇(この場合は鳥羽天皇)が実権を握り続けるため
「お前、譲位して小さい子を天皇にしろよ。ワシが仕事やってやるから」
という理由で若くして退位させられてしまいます。
早い話、表舞台に出てくんな、ということですね。
引退後も鳥羽天皇の仕打ちは終わらず……
崇徳天皇の即位が四歳。
退位が二十二歳ですから、やっと自分の意見を言えるようになったところでムリヤリ退場させられたような形です。
さらに追い打ちをかけるが如く、鳥羽天皇が崇徳天皇の次に皇位につけたのは、崇徳天皇からすれば歳の離れた弟にあたる近衛天皇でした。
近衛天皇の母親が鳥羽上皇のお気に入りだったからとはいえ、二歳での即位というゴリ押しぶりです。
こりゃ恨みたくもなろうというものでしょう。
しかし、怨霊になったのはコレが直接の原因ではありません。
崇徳天皇はこうした好意的とはいえない視線の中で育ち、政治の中枢から追いやられてしまったわけですが、【歌道】を愛する心優しい方でした。
在位中は歌会を催したり。
退位後も和歌集を編纂(へんさん)させたり。
風流な一面を持っており、鳥羽天皇があまり和歌を好まなかったこともあって歌人達からの人気は低くなかったようです。
そのまま芸術の道に生きられればよかったのですが、鳥羽天皇の仕打ちはまだ終わりませんでした。
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