崇徳天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安時代

崇徳天皇の波乱万丈が痛々しい~最強の怨霊?それとも最高の歌人?

元永二年(1119年)5月28日は、崇徳天皇が生誕された日です。

この名前に聞き覚えのある方が持つイメージは【日本三大怨霊の一人】か、もしくは【百人一首の歌人】か、二つに一つでしょう。

なぜこれほどまでかけ離れた印象なのか?

というと、その生涯があまりにも落差の激しいものだったからです。

 

実父は祖父にあたる白河天皇だった?

今回は、天皇と上皇と法皇が色々と登場します。

が、時期によって変えていくとややこしいので、全員退位後も”天皇”で統一させていただきますね。

先に即位の順だけ記しておきますと、

第72代 白河天皇

第73代 堀河天皇

第74代 鳥羽天皇

第75代 崇徳天皇

第76代 近衛天皇

第77代 後白河天皇

となります。

上記のとおり、崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。

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が、この時点で既に不遇が始まっていました。

崇徳天皇の母がかつて白河天皇に仕えていたため、鳥羽天皇ではなく白河天皇の子供だと思われていたのです。

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なんせ当の鳥羽天皇がそう信じ込んでいたといわれているくらいなので、周囲も同調していたでしょう。

崇徳天皇ご本人には責任がないのにひどい話です。

しかもこの時代によくあることで、先代の天皇(この場合は鳥羽天皇)が実権を握り続けるため

「お前、譲位して小さい子を天皇にしろよ。ワシが仕事やってやるから」

という理由で若くして退位させられてしまいます。

早い話、表舞台に出てくんな、ということですね。

 

引退後も鳥羽天皇の仕打ちは終わらず……

崇徳天皇の即位が四歳。

退位が二十二歳ですから、やっと自分の意見を言えるようになったところでムリヤリ退場させられたような形です。

さらに追い打ちをかけるが如く、鳥羽天皇が崇徳天皇の次に皇位につけたのは、崇徳天皇からすれば歳の離れた弟にあたる近衛天皇でした。

近衛天皇の母親が鳥羽上皇のお気に入りだったからとはいえ、二歳での即位というゴリ押しぶりです。

こりゃ恨みたくもなろうというものでしょう。

鳥羽天皇(鳥羽上皇・法皇)/wikipediaより引用

しかし、怨霊になったのはコレが直接の原因ではありません。

崇徳天皇はこうした好意的とはいえない視線の中で育ち、政治の中枢から追いやられてしまったわけですが、【歌道】を愛する心優しい方でした。

在位中は歌会を催したり。

退位後も和歌集を編纂(へんさん)させたり。

風流な一面を持っており、鳥羽天皇があまり和歌を好まなかったこともあって歌人達からの人気は低くなかったようです。

そのまま芸術の道に生きられればよかったのですが、鳥羽天皇の仕打ちはまだ終わりませんでした。

 

今度もまた弟が即位して院政の機会を奪われる

鳥羽天皇がゴリ押しした近衛天皇は生まれつき病弱で、わずか17歳で崩御。

すると、崇徳天皇の息子・重仁親王はハブられ、崇徳天皇からすればもう一人の弟にあたる後白河天皇が即位することになったのです。

本来の順序であれば重仁親王が即位するのが筋ですが、それを見事ひっくり返したわけですね。

もちろん鳥羽天皇の意向でした。

上皇として院政をするには、現役の天皇が直系の子供や孫でなくてはなりません。

つまり、弟が皇位についた時点で崇徳天皇が院政をする機会はなくなってしまったことになります。

「父上はそこまでして私を追い出したいのか!」と、崇徳天皇が怒りと恨みを募らせていったことは想像に難くない状況。

このイジメっぷりからしてどう考えても鳥羽天皇のほうが悪い気がするんですが、なぜか後世(現在も?)怨霊として悪く言われるのは崇徳天皇のほうだという……理不尽なものです。

まぁ、当時はDNA鑑定とかないですから思い込みに勝るものはないんですけども。

 

なぜ怨霊になったとされているのか

話を戻しまして、最終的に「怨霊」と言われてしまうようになった直接の原因についてお話しましょう。

上記の経緯から、当然、崇徳天皇と後白河天皇の兄弟仲は険悪もいいところでした。

そんなタイミングで、火種の鳥羽天皇が亡くなったのでさぁ大変。

こうなると、周りのよからぬ輩がどっちかについて面倒を起こすのはもはやテンプレです。

新しく台頭してきた武士達。

そしてその筆頭に当たる源氏と平家の内部争いがくっついて、ついにドンパチにまで発展したのが保元の乱でした。

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乱のきっかけは、鳥羽天皇が亡くなった際「ワシの遺体は崇徳に見せないように!」とまで言っていたからだそうで……。しかも亡くなる直前にも崇徳天皇はお見舞いに行っていたのに対面を許さなかったとか。

ホント、どこをどうしたらそこまで恨めるんですかね。

崇徳天皇は歩み寄りたそうなのに、鳥羽天皇のほうであまりにも突っぱね過ぎていて、資料読んでるこっちが泣けてきます。

保元の乱の詳細については、以下の記事にマトメてありますのでご覧ください。

保元の乱がわかる!平安時代版「関が原の戦い」と考えればよいのだ

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有名どころが後白河天皇方ということは、勝ったのもそっち側ということです。

当然負けた崇徳天皇と仲間達はそのままの立場ではいられません。

トップの崇徳天皇は讃岐国(香川県)に流罪。

崇徳天皇についた公家や武士も、軒並み実権を失うか、あるいは斬首という厳しい措置がとられました。そして……。
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