平安京復元模型/photo by 名古屋太郎 wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

平安京ってどんな場所だった?「鳴くよ(794)ウグイス」で有名な都の姿

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「桐壺の更衣」や「雷鳴壺」など厨二心をくすぐるネーミング

後宮については、いくつかの小さな建物があり、それぞれの建物の名が主人である女性の通称ともなりました。

これまた源氏物語で例えると、光源氏の母である「桐壺の更衣」は、桐壺と呼ばれていた建物に住んでいたということになります。

淑景舎(しげいしゃ)というのが正式名称なのですが、庭に桐の木が植えてあったためいつしか桐壺と呼ばれるようになりました。

似たような理由で、他に梨壺・梅壺と呼ばれていた建物があります。

源氏の初恋の人である「藤壺の女御」も、藤壺と呼ばれていた建物に住んでいました。

ついでにいうと、「雷鳴壺(かんなりのつぼ)」という厨二心をくすぐられるような呼び名の建物もあります。

由来については「落雷に遭った木をそのままにしていた」とか、「落雷があったときに天皇が避難したから」だとか諸説ありますが、定かではありません。

正式名称は襲芳舎(しゅうほうしゃ、もしくはしほうしゃ)なのですけども、これもこれで厨二くs……ゲフンゲフン。

 

朱雀大路の西側「右京」は小説・羅生門のイメージか

次は大内裏の外のお話です。

朱雀門からまっすぐ南に「朱雀大路」という大通りがありました。

門を出てすぐのところに菅原道真などで有名な「大学寮」が設置してあり、やはり大内裏に近い位置に重要施設や貴族の邸宅などが広がっています。

そこから南に下るに従って、少しずつ開発が後回しになっていたようです。特に右京(朱雀大路より西側)は地盤の関係もあって、ほとんど建築もされず、あまり治安も良くなかったとか。

芥川龍之介の「羅生門」を思い浮かべていただけるとわかりやすいですかね。

というか、このタイトル自体、朱雀大路の一番南=平安京の出入り口にある羅城門からきていますし。

また、いくら衛生概念で定評のある日本とはいえ、平安時代はお察しというレベルでした。

そもそも貧困から来る栄養不足により体力がない庶民が、衛生状態の良くないところで過ごしていたら、バタバタ病気で亡くなっていきますよね。

この辺を結びつけて考えると……、この記事がR18Gになってしまうのでやめておきましょう。

そんなわけで、同じ「平安京」の中でもやはり、大内裏の内側やそこに出入りする人々の住まい・生活区域と、庶民の界隈とは別世界だったのでした。

平安時代については基本的に大内裏周辺のことしか習いませんから、この辺のことを知るといかにも「古代」という感じがしますね。

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【参考】
国史大辞典
平安時代の京都・村田和弘(→link
平安京/wikipedia

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