日常生活には、そんな謎がゴロゴロしていますが、こと歴史に関して言うと、あの都市もそうではないでしょうか?
延暦十三年(794年)10月22日に桓武天皇が遷都した平安京です。
「江戸城は大きいなぁ……」
なんて個人的感想は記録されていないので、平安京の遷都自体はエピソードが豊富とは言えません。
今回は「平安京とはどんな場所だったのか」という視点から迫ってみたいと思います。
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大内裏は政庁エリアと皇居エリア
今の京都にも「京都御所」がありますよね。
実はあそこ、平安京の中心地だった大内裏(だいだいり)とは離れています。
現在の京都御所は、もともと土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)があった場所。
皇族の御所などに度々利用されていたところです。
平安京ができた当時の大内裏・内裏は、安貞元年(1227年)にほとんど焼けてしまって再建できず、南北朝時代から土御門東洞院殿が御所になっていたので、レプリカというわけでもないんですが、ややこしいですね。
大内裏は政庁エリアと皇居エリア(内裏)とでもいうべき地区が分かれていて、ほとんどは政庁エリアでした。
周囲には14の門(宮城十二門+上東門と上西門)を設置。
中には女院号として使われた美福門・待賢門・上東門などもあります。
そして大内裏の南部中心・正門に当たるのが朱雀門です。
ここから真南へ向かって羅城門まで伸びているのが、平安京のメインストリートである朱雀大路ですね。
官名は大内裏の政庁から来ている
武士や戦国武将の官名でよく出てくる建物の名前は、大内裏の政庁からきているものもあります。
「大内裏の中にある◯◯という部署の役人」という意味なので、一例としては以下のようなものがあります。
◆右馬寮→右馬頭(うまのかみ)
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◆刑部省→刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)
大谷吉継など
◆右近衛府→右近衛(権)少将(うこんえのしょうしょう)
伊達政宗など
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他にもたくさん例はありますが、キリがないのでこの辺で。
当時は、下の名前を呼んでいいのは上司と親くらいで、
【名字+官名】
で呼ぶのが無難とされていました。戦国武将の場合は自称であることが多いですけど。
歴史小説や手紙などで「名字はわかるけど、下の名前が何かヘン」という場合は、だいたいこの辺の官名で呼ばれていることが多いので、覚えておくと便利かもしれません。
現代でいえば、会社の課長や部長のことをフルネームで呼ばないのと似た感じですかね。
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大内裏の役所の中で現在も残っているorまたは近年まで使われていた名前としては、宮内省(庁)・大蔵省などがあります。
大蔵省というと、諸々の不祥事のイメージが強い方も多いかと思いますが、本当は歴史ある名前なんですよね。残念な話です。
天皇エリアと後宮エリアに分かれていた内裏
皇居エリアである「内裏」には、もちろん天皇の住まいや後宮がありました。
この辺のことは、源氏物語が好きな方ならよくご存知でしょうか。
解説書などを読むと、図入りで説明されていますよね。
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内裏もまた大きく二つに分かれていて、天皇が政務を取ったりその他生活をする部分と、後宮に分けられていました。
便宜上、前者を天皇エリア、後者を後宮と呼ばせていただきます。
江戸城で例えると、「表」と「中奥」が天皇エリアで、「大奥」が後宮……余計わからないって? サーセン(´・ω・`)
おおまかなイメージとして「男女でだいたい生活区域が分かれていた」と思っていただければ良いかと。
天皇エリアには政務を執る部屋・天皇の寝室などがある「清涼殿」、儀式場である「紫宸殿」(南殿)などがありました。
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こう書くと非常に弘そうな印象ですが、実際は案外(?)こぢんまりしています。
西洋のように「階段の上に主君が玉座でふんぞり返っている」という構図ではなく、天皇の座所は他の部屋と高さ的にはほとんど同じですし、御簾で区切られているだけでしたしね。
当時の天皇の御前で行われた歌合せなどの絵を見ると、「これ曲者がいたら一発アウトじゃね?」とツッコまざるを得ないほど、天皇と臣下の距離が近い。
度重なる災害の多さや土地の狭さなども影響しているでしょうが、他国と比べると特異なところですね。
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