父は長岡京造設中に暗殺された藤原種継。つまりは藤原氏のお嬢様ですね。
大同4年(809年)4月1日は平城天皇が譲位された日ですが、それが彼女とどう関係あるのか?
というと、自分を愛してくれた平城上皇をもう一度天皇にしようと企み、とんでもない結末を迎えます。
今回の日本史ワル査定は、この薬子さんにスポットを当ててみましょう。
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母である藤原薬子は女官となり不倫関係へ
まず、薬子と平城上皇の関係は夫婦ではありません。
彼女の長女が平城上皇の皇太子時代に妃となっています。
エッ? つまりは妃のかーちゃんと恋愛?
そうなんです。
娘がまだ若かったため、母である薬子が女官となって付き添い、そのまま皇太子と不倫関係になってしまうのです。
ここで一つ目の悪ポイントを書き出しておきましょう。
・娘の夫と不倫
このスキャンダルに皇太子の父である桓武天皇は当然激怒。
薬子を宮中から追放します。
※以下は桓武天皇の関連記事となります
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邪魔な夫は九州へ飛ばす
しかし、806年に桓武天皇が崩御し、皇太子が平城天皇になると、薬子は再び呼び戻されます。
このとき薬子は推定アラフォー。
当時としてはかなりの年齢なわけですが、おそらくや美魔女の類だったのでしょうね。
そして彼女にとっては「邪魔でしかない夫は?」と申しますと。
・薬子の夫、太宰府の長官として九州へ
言うならば夫の勤務先社長と不倫ですからね。
「チミ、ちょっと海外に単身赴任してくれんかね」なんて朝飯前でしょう。
こうして天皇の愛人となった薬子はこの世の春を謳歌。
さらには薬子の兄・藤原仲成もやりたい放題となります。
しかし平城天皇は、もともと「病弱+精神的な病気」のコンボで気弱になり、在位わずか3年で天皇の位を弟の嵯峨天皇に譲って太政天皇(上皇)になってしまいます。
それが冒頭で触れた大同4年(809年)4月1日のこと。
平城上皇が病のため儚くなってしまったなら話はここで終わるのですが……見事に体調がご回復とあいなります。やばい……。
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