嘉祥三年(850年)5月4日は、檀林皇后(だんりんこうごう)が薨去した日です。
本名は橘嘉智子(たちばな かちこ)といい、嵯峨天皇の皇后でした。
また、史上唯一の橘氏出身の皇后でもあります(皇后や中宮などの違いは以下の記事へ)。
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橘氏は「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と数えられる姓のひとつですが、他の三つの姓に連なる家があまりにも勢力を持ち続けたため、歴史の表舞台にはあまり出てきませんよね。
しかし、古代には橘諸兄(橘氏に臣籍降下した元皇族)や藤原不比等の正室、今回の檀林皇后のように重要な立場になった人もいました。
天皇と同じく、皇后としての名前も死後に贈られる諡号(しごう)なのですが、例によって立場がわかりやすいほうのお名前で統一させていただきます。
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あっちこっちに子供のいた嵯峨天皇の妻として
檀林皇后は、嵯峨天皇の即位前に嫁ぎました。
嵯峨天皇の即位翌年に立后(皇后になること)したのはまあいいとして、二男五女をもうけるという夫婦仲の睦まじさです。
といっても嵯峨天皇は檀林皇后一筋だったわけではありません。
他の妃や婦人も数多く抱えている上に、女官にも多く手を付けてあっちこっちに子供が生まれているので、おそらく嵯峨天皇のほうが子に恵まれやすい体質だったのでしょう。
新生児の死亡率が極めて高かったであろう古代においては大きなメリットですが、これがもう少し後の時代だったら、かなり大きな問題になっていたはず。
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檀林皇后本人は、当時その美しさで世に知られた人でした。
そんな美人を第一の妻に持って、さらに他の女性に目が向くというのも不思議なものですね。
仏教に惹かれ、仏教に帰依したからこその遺言?
それでいて檀林皇后は嫉妬に狂うことも、美しさや立場を笠に着るようなこともせず、篤く仏教を信仰していたそうです。
「檀林」という諡号も、彼女が檀林寺というお寺を創建したことからきています。
優しい人だからこそ仏教に惹かれたのか、仏教に帰依したからこそ生きとし生けるものに慈悲の心を向ける気になったのか……。
その辺は判然としませんが、志が死後にまで向けられていたことは、彼女自身の遺言に表れています。
と、その前に少々注意事項を添えさせていただきますね。
話の腰を自ら折るようでビミョーな気分ですけれども、以下のお話は当コーナーで一・二を争うグロテスクな話です。
その手の話題が苦手な方、想像力に優れすぎている方はここまでで読むのをおやめいただいたほうがよろしいかと思います。
具体的な表現を避けて表すとすれば「ある意味、戦場のカラー写真よりキツイ」。もう少し近づけた表現でいくと『捨身飼虎図』あたりが的確かと。
そろそろ、どういう方面の話なのか見当がついた方も多いと思うので、本当にダメな方はこの先をお読みになるのはやめてくださいね。
では、本題へ向かいましょう。
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