と問われたら、誰かが必ず名を挙げるであろうあの人。
文治二年(1186年)4月8日は、静御前が鶴岡八幡宮で舞を披露した日です。
源義経の恋人として有名な人ですが、正室ではありません。
その辺の事情は、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で皆さまも既にお詳しくなっていますよね。
今回はそんな静御前と郷御前、さらには蕨姫という、義経と関係が深い女性3人の非情な命運を振り返ってみたいと思います。
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母・磯禅師に付き添い京都のお屋敷に出入り
静御前の生年はハッキリしません。
母の磯禅師(いそのぜんじ)という人が京都で公家を相手に白拍子を斡旋したりしていたそうなので、都の近辺で暮らしていたと思われます。
白拍子というのは男性の服装である水干(すいかん)や烏帽子、刀を身につけて舞を披露する仕事で、遊女としての側面もありました。
が、出入り先が公家や皇族の屋敷だったため、自然と教養が身についていき、品の良い人も多かったようです。
磯禅師も自身が白拍子として名を上げていたからこそ、斡旋という難しい役目ができたのでしょう。
そして静御前もまた、母と同じく白拍子としてあちこちの屋敷へ行っていたと思われます。詳しい経緯は不明ですが、その後、京へ滞在中の義経と知り合う機会があり、愛されて妾になりました。
義経の正室は郷御前(さとごぜん)という人で、関東の豪族の娘だったそうです。
静御前よりは身分が高かったことは確実ですね。
嫁いだ時期が、源頼朝とのイザコザが置き始めた頃だったので、「スパイだったのでは?」という見方もあります。
しかし、郷御前の母親が頼朝の息子・源頼家の乳母だった縁で、前々から結婚自体は決まっていたようです。
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この辺からすると、頼朝も始めのうちは弟を手荒な手段で始末するつもりはなかったのかもしれませんね。
吉野山で突然「お前は京に戻れ」
やがて平家との戦いが終わり、義経は兄・頼朝と完全に決別して京を追われます。
その際、家来達と共に郷御前と静御前もついていくことになりました。
が、静御前は桜の名所・奈良の吉野山で義経から「お前は京に戻れ」と言われ、別れることになります。京都から奈良までは同行させたんですね。
郷御前はそのままついていくことになりますが、ここで話が大きく分かれるので、まずは静御前に注目してみましょう。
義経は静御前に対し、当面の足しになるよう、お金と護衛兼世話役の男達をつけてくれました。
が、そいつらが静御前からお金を奪って逃げるというサイテーなことが起きます。なぜ、もうちょっとマトモな人を選べなかったのか、と……。
そんなわけで静御前は初冬の寒い山の中を一人でさまよい、運よく頼朝の命で義経一行を探していた吉野山の僧兵に保護されました。
多少の詰問はされたようですが、僧兵達は静御前に同情し、鎌倉へ差し出す前にいろいろと便宜を図ってくれたそうです。
そして半月後、まず京都にいた北条時政(政子の父親)に預けられ、そこから鎌倉へいくことになります。
京都の時政と鎌倉の頼朝との間でいくらか手紙の往来があり、静御前がその母・磯禅師と共に鎌倉へ着いたのは、翌年3月始めのことでした。
このとき静御前は義経の子供を身ごもっていたらしいので、長旅は相当きつかったでしょうね。
北条政子はやっぱり怖い?
鎌倉に着いたら着いたで一週間もしないうちに取調べが始まったと言います。
体力的にも精神的にも相当辛かったでしょう。
翌4月には「舞を披露せよ」と言われているのですから、ここで当てつけに自害していてもおかしくないほどの扱いです。
静御前は再三体調不良などを理由に断っていたのですが、北条政子が「京一番の名手の舞を見られないのは惜しい。頼朝様ではなく八幡宮に捧げるために舞ってくれませんか」とやんわりゴネたため、断りきれなくなりました。
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「政子やっぱ怖いわー」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
が、そこはさすがに尼将軍。きちんとフォローも入れています。
静御前はこのとき、義経を慕うような内容の歌に合わせて舞いました。
これに対し、源頼朝は当然怒ります。
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頼朝の立場してみれば、やっと平家を倒して政権を作ろうとしているところに余計な茶々を入れられ、面倒を増やされた相手ですからね。
そこで政子が頼朝へこう語るのです。
「不本意に別れることになった夫を慕う気持ち、私にはよくわかります。私たちだって、昔は似たようなものだったじゃありませんか」
頼朝は流罪の身から出兵して基盤が不安定でしたし、その帰りを待っていた期間が長かった政子としてみれば、他人事には思えなかったのでしょう。
糟糠の妻の説得に頼朝も怒りを収め、静御前に褒美をくれたとか。
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