【応仁の乱】が起きてからの室町幕府は、教科書的にも扱いが悲惨です。
乱の勃発後は、すぐに「戦国時代へ突入!」みたいなイメージで、八代将軍・足利義政以降のメンツは、とにかく影が薄いったらない。
せいぜいが
「三好勢に殺された足利義輝」
とか
ぐらいのもので、九代目以降の将軍様は、とにかく目立ちません。
いい機会ですので1代将軍から15代まで確認しておきましょう。
1.足利尊氏
2.足利義詮(よしあきら)
3.足利義満
4.足利義持
5.足利義量(よしかず)
6.足利義教(よしのり)
7.足利義勝
8.足利義政
9.足利義尚(よしひさ)
10.足利義稙(よしたね)
11.足利義澄(よしずみ)
12.足利義晴
13.足利義輝
14.足利義栄(よしひで)
15.足利義昭
なんだか地味ですよね?
正直、申し上げたら1、3、6、8、13、15以外は「ほとんど知らん」状態かもしれません。
特に10代目以降の無名っぷりには涙を誘われますが、そうした事情にもちょっとした理由があります。
十代目以降の将軍様は、
【ほとんど京都にいなかった】
という有様だったのです。
政治の中心にいられないんだから名も残せなくて当然。
今回はその一人目となる、足利義稙(よしたね)さんの足跡を追ってみたいと思います。
彼は名前を
義材(よしき)
↓
義尹(よしただ)
↓
義稙(よしたね)
というように頻繁に変えておりまして、ここでは例によって【義稙】で統一させていただきます。
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応仁の乱直前に生まれ
足利義稙は文正元年(1466年)、足利義視(よしみ)の息子として生まれました。
父・義視は八代将軍・義政の弟です。
母は裏松政光(日野重政)の娘・良子。
日野家から嫁いできたお母さんという、この時期の足利氏あるあるな両親でした。
義稙が生まれたのは、上記の通り、応仁の乱直前です。
父の義視も息子のことをカバーしきれなかったらしく、彼が応仁の乱で東軍から西軍になった際、義稙は置いてけぼりになってしまったことがありました。
東軍から西軍へ丁重に送り届けられたため、大事には至りませんでしたが「そういうことができるなら、なんで戦やってんの?」とツッコミたくなりますね。
これは【応仁の乱】の敵味方が、そのときどきの利害関係によって、コロコロ変わっていたからです。
例えば、東軍だからといって勝元に忠実なわけではないし、必ずしも次の将軍に義尚を推していたとも限りません。
この辺が応仁の乱をカオスにしている原因のひとつ。
要するに、誰もが
「俺が一番オイシイとこをもらう! そのために殺したり融通し合ったり!!!」
という複雑な様相を呈していたんですね。ったく、もう。
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叔母である日野富子に推挙された
応仁の乱自体は文明九年(1477年)で一旦収束します。
しかしアチコチに飛び散った戦乱は収めようもありません。
そんな中、九代将軍となった義尚が亡くなり、代わりに政務をしていた義政も亡くなります。
そして、この時点で義政の正室であり義尚の母でもある日野富子が健在だったため、彼女の意見が次期将軍選びに大きく作用しました。
富子自身にはもう男子がなかったため、義稙にお鉢が回ってきたのです。
「義稙のトーチャンは義視だから、応仁の乱で敵対してたんでしょ? なんでその息子に将軍を継がせようと思うの?」
そんな疑問を持った方もおられるでしょうか。
実は、義稙の母が富子の妹なのです。
つまり、義稙と富子は甥・伯母の関係となります。
将軍家の血を引いていて、自分とも縁があるとなれば、富子にとってこれ以上の候補者はいないというわけです。
こうして担がれた義稙は延徳二年(1590年)、室町幕府十代将軍となりました。
六角氏討伐のため自ら出陣 勝利を収める
最初は父である義視の補佐を受けていました。
しかし、乱の当時幼く、恨みや先入観が薄かったであろう義稙には、先代・足利義尚のやり方が良いと思えたようです。
義尚がやり残した六角氏討伐のために自ら出陣し、無事勝利を収めて凱旋しています。
最初は意外に頑張ってるんすよね。
初めて聞くという方もおられるのではないでしょうか。
次に畠山政長の要請により、彼の同族・畠山基家の討伐を行うことになります。
政長は、応仁の乱で直接の引き金になった【御霊合戦(または上御霊神社の戦い)】当事者の一人です。
これは畠山氏のお家騒動だったのですが、基家は、政長の敵だった畠山義就の息子で、この時期になっても対立が解消していなかったため、将軍を味方につけようとしたのです。
と、ここで誤算が起きます。
富子と義稙の対立が深刻化したのです。
富子は細川政元(勝元の息子)と手を組み、
「義稙ウザイから追い出そう。出家した中には足利家の血を引く男子がまだまだたくさんいるし♪」(超訳)
という計画を立てました。
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