「夏草や 兵どもが 夢の跡」
ご存知、江戸期の俳人・松尾芭蕉が、平泉で詠んだ俳句ですね。
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奥州藤原氏の栄華を偲んだもので、歴史や古文にあまり興味のない方でも、一度は聞いたことがおありでしょう。
しかし、兵どもの夢は、なにも平泉だけではありません。
古都として有名なところ、つまりは古くから栄え、権力を巡って争いが起きたところでは、多くの町に彼らの記憶が眠っています。
関東でも屈指の夢の跡が【鎌倉】。
既に修学旅行や校外学習、あるいはランチなども絡めた鎌倉観光を楽しんだ方も多いかと思いますが、今回は鎌倉武士の「最期」に思いを馳せながら、各所を巡り歩いてみました。
お墓の写真はありませんので、そういうのが苦手な方も安心してお読みいただける仕様になっております。
え?
片手落ち?
いやー、お墓の写真を撮るのは何かこう生理的に……ぶっちゃけ怖いんです(´・ω・`)
ともかく、このエリアは大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも注目度が非常に高まるところでもありますので、よろしければ事前学習としてもお楽しみください。
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【1-2】白旗神社&源頼朝の墓&法華堂跡
鎌倉には「白旗神社」という名前の神社が二つあります。
一つは鶴岡八幡宮の東の端にあり、頼朝とその息子・源実朝が共に合祀されているところです。
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江戸時代までは別々の社があったそうで、明治に入ってから合祀したのだとか。
本殿の東側の静かな一角で、近くに鎌倉国宝館があります。併せて訪れるのもよさそうです。
この日は残念ながら展示替えのため休館でした。
近くには、明治~昭和の実業家・菅礼之助氏の句が立て札に掲げてありました。
もう一つの白旗神社は、ここから徒歩10分ほどの位置にあります。
こちらは頼朝存命中に鎌倉幕府があったところとされていて、まず神社があり、横の階段を登ると頼朝のお墓が据えられています。
階段が結構急なので、行かれる方はご注意ください。
他の武将の墓と違うのは、脇に添えられているこれでしょうか。
これは、頼朝の同母弟・希義(源義朝の五男)のお墓から分けられた土と石です。
希義も頼朝と同じように【平治の乱】の戦後処理で流罪となり、土佐(現・高知県高知市介良)に流されていました。
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それから20年近く経って頼朝が挙兵したとき、希義も関東へ向かおうとしましたが、平重盛(清盛の長男)に察知されて討ち死にしてしまった……という、範頼や義経とはまた違った悲劇の人です。
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琳猷上人という僧侶が希義の遺体を引き取って供養し、後日頼朝にそのことを伝えると、頼朝は涙していたとか。
やはり同母弟で年も近かっただけに、再会したいという願いも強かったのでしょうね……(´;ω;`)ブワッ
希義の墓周辺にはお寺があったそうなです。
しかし、近世に至るまでに寂れ、明治時代の廃仏毀釈運動で廃寺となったとのこと。
お墓だけは長らく「”伝”希義の墓」として残っていたのを、1995年に有志の方々によって「兄弟を再会させてあげよう」と、お互いの墓の土と石が交換されたのだそうです。ええ話や。
また、頼朝の墓の右手には小さな空き地があります。
階段下のこの看板からすると、宝治合戦で追い詰められた有力御家人・三浦氏の最期の地と思われます。
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三浦氏は進退窮まった末、「頼朝公にお詫びして腹を切ろう」と、一族揃って頼朝の墓前の法華堂にやってきた……といわれていますから。
【3】法華堂跡・北条義時の墓
頼朝のお墓から徒歩2~3分ほどのところにあります。
こちらも「法華堂跡」なのでややこしいところです。
現在はまっさらな空地になっており、遺構のいの字も見当たりません……が、左手の崖に北条義時のものといわれているお墓があります。
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「やぐら」と呼ばれる、鎌倉独特の形式のものです。内部がかなり暗いので、踏み込まないと全容がわかりません。
ざっくりいうと「ちょっと横穴を掘って墓石を置く」というものです。
鎌倉にしかないと思われていましたが、1990年代になって房総半島からも大量に見つかりました。
鎌倉時代まではちょこちょこ作られていたそうで、室町時代以降に廃れていったと考えられています。
当時は装飾されていたり、扉がつけられていたと思われるものもあるようです。
扉は外されたか朽ち果ててしまい、被葬者がわからなくなっているものがほとんどだとか。
釈迦堂口切通し(現在崩落の危険があるため通行禁止)の壁面にも、誰のものかわからないやぐらが多数あるそうです。
また、戦時中あたりまでは子供の遊び場になったり、防空壕代わりになったりしていたとか。いろんな意味で恐ろしいですね。
やぐらについては、つい最近鎌倉市と中国が共同研究を始める方向で動き出したとか。
何でも、中国の石窟文化との類似点がうかがえるそうで、近いうちに進展があるかもしれません。
詳しくは以下のニュースサイトをご覧ください。
◆[中世の横穴式墳墓「やぐら」の実態解明へ 鎌倉市と中国が共同研究 - 産経ニュース](→link)
このすぐそばに、次に挙げる二人のものといわれているお墓があります。
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