源範頼

源範頼/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源範頼(頼朝の弟)の不審死~兄弟で消されたのは義経だけじゃない

源氏は身内の殺し合いがキッツイ!

親・兄弟・叔父・甥・従兄弟の間で殺し合いを続けてきた――とは以下の記事でも触れましたが、

源氏は身内で殺し合う~源義賢(頼朝の叔父)は甥の源義平に追い込まれ

続きを見る

当然その中には源頼朝も含まれるワケで。

建久四年(1193年)8月17日、源範頼(のりより)が兄・頼朝によって伊豆へ配流されました。

しかも配流直後に殺されたようです。

頼朝が殺した弟というと源義経のイメージが強いですが、もう一人、悲劇の弟がいたんですね。

 

源範頼だけじゃない 兄弟全部で10人以上

範頼は生まれた順でいえば、頼朝が兄、義経が弟となります。

母が異なるのですが、それぞれ

・頼朝1147年
・範頼1150年
・義経1159年

の生まれです。

源頼朝
源頼朝 史実の人物像に迫る!出生から鎌倉幕府の設立 死因まで53年の生涯

続きを見る

源義経
源義経 史実の人物像に迫る! 兄・頼朝とすれ違い続けた31年の儚き生涯

続きを見る

この兄弟、実は3人だけではありません。

お父さんの源義朝は【保元の乱】やら【平治の乱】やらで大忙しだったはずですが、

保元の乱
保元の乱はまるで平安時代の関ヶ原合戦! 対立図を理解すればわかる

続きを見る

平治の乱は保元の乱と何が違う? 源平ガチ対決で清盛の政治力が炸裂

続きを見る

子作りだけは至る所できちんとしていたのですね。

その数、軽く10人以上。

源氏を継ぐことになる頼朝の母は、熱田大宮司の娘さんでしたが、義経の母・常盤御前は天皇の奥さんに仕える下働きの身分の低い女性でした。

さらに範頼の母は、遠江(静岡県東部)の宿場の遊女です。

この当時は、通い婚も続いており、嫡男など一部をのぞいて、子どもの養育は母方が行うことが多かったので、範頼は源氏の一員として育てられておりません。

いつごろ頼朝の軍に加わったのかもハッキリしていませんが、挙兵が1180年で、翌年には頼朝の命により下野(栃木県)で軍事行動を起こしているので(『吾妻鏡』)、挙兵直後から合流していたのでしょう。

 

一ノ谷の戦い 総大将は義経ではなく源範頼

1184年には頼朝の代官として、先に都入りした源氏一門・木曽義仲の追討作戦を、義経と共に行っています。

源義仲・木曽義仲・木曾義仲
源義仲(木曽義仲)が平家討伐で大活躍! 最期は義経に討たれた生涯31年

続きを見る

対平家の【一ノ谷の戦い】(神戸市)では、範頼は「大手大将軍」となって敵の主力を引きつけ、義経が背後をまわり挟撃するなど見事な連携を見せました。

このあたりは母親が違うとはいえ、さすが兄弟という感じがしますね。

範頼は総指揮、義経は機動力と得意分野が違ったからこそうまくいったのかもしれません。

一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)
一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)がわかる!源平合戦の趨勢を決めた一戦

続きを見る

この後、平家滅亡をはさんで、義経は頼朝と対立していきますが、範頼は頼朝に従い続けました。

頼朝はこのあたりから「何をするにもオレに報告してから決めるように!」と言いつけるのですが、それもきちんと守りました。

反対に義経は「自分のことは自分でできるし~?」などと反抗してしまいます。

平家を滅ぼして、さあ家中をまとめようと意気込む頼朝にとっては邪魔そのもの。しかし、義経は頼朝の考えを理解することができませんでした。

範頼はこの頃、戦後処理のため九州にいて「海が荒れてるから、帰るのは遅くなりそうです」というような細かいことまできちんと報告するマメさです。

この対照的な反応がますます頼朝の中で、二人の印象を際立たせていくのでした……。

しかし、そんな範頼も一度だけ頼朝に逆らったことがあります。

義経の追討を命じられたときです。

短い間であっても、共闘した弟を討てるほど冷徹な人物ではなかったのでしょう。

皮肉なことに、その優しさがきっかけとなって自分の評価を落としていってしまいます。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-,