大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の序盤に登場した大庭景親は、非常に印象的な最期でした。
その景親と比べ、情けなかったのがこの男。
狼狽しながら命乞いをして、運良く助命された山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)です。
ドラマでは頼朝と不思議な出会いをしていたこの人物は、一体どんな存在だったのか?
嘉禄元年(1225年)6月21日に亡くなるまで脅威の長生きを果たした、史実の経俊を追ってみましょう。
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山内首藤経俊は頼朝の乳兄弟
頼朝と知り合いだった山内首藤経俊。
なぜ、ドラマではあれほど親しげだったのか?
身分を考えると不思議に思う方もいたかもしれませんが、まず始めに人間関係をザッとまとめるとこうなります。
平安時代から鎌倉時代にかけての乳母(うば/めのと)は、実際に母乳を与えるだけでなく、長期にわたり貴人を育てる役目を負っていました。
流人として伊豆に流された源頼朝には複数の乳母がいます。
経俊の母もその一人で、経俊は頼朝と乳兄弟の関係。
他に例を挙げると『平家物語』に登場する木曾義仲と今井兼平もそうなります。
ではなぜ山内尼が頼朝の乳母に選ばれたのか。
それは【平治の乱】において、経俊の父である山内俊通や兄の山内俊綱が、頼朝の父である源義朝と共に戦ったことがあげられます。
義朝に付き従い父と兄が討死したため、経俊が家を継いだのでした。
石橋山の戦いでは平家が勝つも
そんな山内首藤経俊、そもそもな話ですが名前が長いとは思いません?
同家の歴史を振り返りますと、藤原秀郷の流れを汲む藤原氏で、代々首藤(守藤)を称してきました。
そして父・俊通の代に鎌倉郡山内荘を本領としたため、山内首藤と称するようになったのです。
山内荘は、現在の神奈川県鎌倉市山ノ内にあった広大なエリアで、北鎌倉駅があることから現在は北鎌倉と呼ばれ、名刹も多い風情ある一帯です。
そこまで源氏と縁が深いのであれば、頼朝が挙兵した際、真っ先に駆けつけそうに思えます。
しかし……。
源氏か? 平家か?
治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した際、平家方の大庭景親が頼朝討伐の兵を挙げました。
ドラマでも景親に寄り添う姿勢が描かれましたが、このとき経俊は大庭軍に従います。
※以下は大庭景親の考察記事となります
大庭景親は相模一の大物武士だった~それがなぜ一度は撃破した頼朝に敗北したのか
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なぜ源氏につかなかったのか?
というと、そう簡単ではない事情がありました。
頼朝の挙兵に先立ち、兄弟にあたる俊秀が【以仁王の挙兵】に参加し、討死していたのです。
圧倒的な平清盛の権力を前にして、もし次に源氏に敗れたら、家ごと潰されるのは必定。
そのため経俊は、頼朝からの使者・安達盛長に対し暴言を吐き、助力を拒みます。
ドラマでも「犬の糞!」と頼朝のことを罵っていましたが、『吾妻鏡』に基づいた発言だったんですね。
ただ、錯綜した状況の中で、これも仕方ないことかもしれません。
なんせ大庭景親は相模でも最大級の武士ですから、逆らえばあとがない。
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