山内首藤経俊

源範頼・源義経の平家追討軍出陣の錦絵に100名近い家臣が描かれているが経俊の名は無し/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

頼朝に矢を放ちながら首を斬られずに済んだ山内首藤経俊~89歳の長寿を全うする

頼朝軍の武士たちを前に、毅然としながら首を落とされる――。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の序盤に登場した大庭景親は、非常に印象的な最期でした。

その景親と比べ、情けなかったのがこの男。

狼狽しながら命乞いをして、運良く助命された山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)です。

ドラマでは頼朝と不思議な出会いをしていたこの人物は、一体どんな存在だったのか?

嘉禄元年(1225年)6月21日に亡くなるまで脅威の長生きを果たした、史実の経俊を追ってみましょう。

 


山内首藤経俊は頼朝の乳兄弟

頼朝と知り合いだった山内首藤経俊。

なぜ、ドラマではあれほど親しげだったのか?

身分を考えると不思議に思う方もいたかもしれませんが、まず始めに人間関係をザッとまとめるとこうなります。

山内首藤経俊:源頼朝の乳母子(めのとご)または乳兄弟(ちきょうだい)

山内尼(やまのうちのあま):源頼朝の乳母をつとめていた経俊の母

源頼朝:母の養君(やしないぎみ)

平安時代から鎌倉時代にかけての乳母(うば/めのと)は、実際に母乳を与えるだけでなく、長期にわたり貴人を育てる役目を負っていました。

流人として伊豆に流された源頼朝には複数の乳母がいます。

経俊の母もその一人で、経俊は頼朝と乳兄弟の関係。

他に例を挙げると『平家物語』に登場する木曾義仲今井兼平もそうなります。

ではなぜ山内尼が頼朝の乳母に選ばれたのか。

それは【平治の乱】において、経俊の父である山内俊通や兄の山内俊綱が、頼朝の父である源義朝と共に戦ったことがあげられます。

義朝に付き従い父と兄が討死したため、経俊が家を継いだのでした。

 


石橋山の戦いでは平家が勝つも

そんな山内首藤経俊、そもそもな話ですが名前が長いとは思いません?

同家の歴史を振り返りますと、藤原秀郷の流れを汲む藤原氏で、代々首藤(守藤)を称してきました。

そして父・俊通の代に鎌倉郡山内荘を本領としたため、山内首藤と称するようになったのです。

山内荘は、現在の神奈川県鎌倉市山ノ内にあった広大なエリアで、北鎌倉駅があることから現在は北鎌倉と呼ばれ、名刹も多い風情ある一帯です。

そこまで源氏と縁が深いのであれば、頼朝が挙兵した際、真っ先に駆けつけそうに思えます。

しかし……。

源氏か? 平家か?

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した際、平家方の大庭景親が頼朝討伐の兵を挙げました。

ドラマでも景親に寄り添う姿勢が描かれましたが、このとき経俊は大庭軍に従います。

※以下は大庭景親の考察記事となります

大庭景親
大庭景親は相模一の大物武士だった~それがなぜ一度は撃破した頼朝に敗北したのか

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なぜ源氏につかなかったのか?

というと、そう簡単ではない事情がありました。

頼朝の挙兵に先立ち、兄弟にあたる俊秀が【以仁王の挙兵】に参加し、討死していたのです。

圧倒的な平清盛の権力を前にして、もし次に源氏に敗れたら、家ごと潰されるのは必定。

そのため経俊は、頼朝からの使者・安達盛長に対し暴言を吐き、助力を拒みます。

ドラマでも「犬の糞!」と頼朝のことを罵っていましたが、『吾妻鏡』に基づいた発言だったんですね。

ただ、錯綜した状況の中で、これも仕方ないことかもしれません。

なんせ大庭景親は相模でも最大級の武士ですから、逆らえばあとがない。

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