「ロミオとジュリエット」と言うには、いささかロマンチック過ぎるけれど、二人の離別シーンには胸が締め付けられる思いだった。
それが大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の北条義時と、その妻・比奈(姫の前)でしょう。
劇中では、義時が八重と死別した後、比企一族から迎えた姫。
いったい史実ではどんな女性だったのか?
北条と比企を繋ぐ――そんな役割からして政略結婚にも思えますが、意外や北条義時からの猛烈アタックで結ばれたという記録が残されています。
では、二人が離別した後の彼女はどうなってしまったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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義時一人目の妻は正体不明
大河ドラマの主人公にもなったのに、婚姻関係がとにかくわかりづらい北条義時。
嫡男・北条泰時が寿永2年(1183年)の生まれですので、少なくともその前年には妻がいたと考えられます。
しかし、この泰時は「庶長子」とされています。
ゆえに、義時が妾を迎え産ませたようにも思えてきますが、ここで『鎌倉殿の13人』を思い出してみましょう。
劇中で義時は八重に向かい、「正式に結婚することを認めてもらう」と語っていました。
江間の領地をもらい、その屋敷に八重を住まわせていた義時。
あの状態では、周囲からも深い仲だと見なされていたことでしょう。
下衆の勘ぐりでもなくそれが当時の感覚であり、正式な夫婦関係であることを認めさせていたという状況がわかる場面です。
そもそも当時の義時は、本人の身分が盤石ではありません。
父・北条時政も跡取りとは決めておらず、江間を領有する「江間小四郎義時」とみなされていました。
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鎌倉殿である源頼朝の義弟ではある。
しかし御家人としてはせいぜい江間の領主程度。
そんな身分だからこそ、義時の結婚に関する記録は曖昧であり、息子・泰時の誕生も重視されなかったため、母の身分も生まれた性格な日付も判明しておりません。
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だからといって、その女性がぞんざいに扱われたことにはなりません。
確かに、義時一人目の妻であり泰時の母は「妾」と表記されることもあります。
これが現代人の考える「妾=愛人」という図式には当てはまらないのです。
当時は、結婚相手に身分差があると、正式な婚礼でも「妾」と記載されることがあり、例えば、義時の妹である阿波局(実衣)もそうでした。
彼女も
「源頼朝の異母弟・阿野全成の妾」
と記載されていることがあります。
源氏の御曹司に嫁いだ地方小豪族・北条氏の娘という力関係からそうなってしまうんですね。
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少し前提の話が長くなってしまいました。
それでは義時の正室・比奈(姫の前)を振り返ってみましょう。
高嶺の花だった姫の前
義時の長男・泰時が生まれ、彼が9歳なっていた建久2年(1191年)。
妻に先立たれて数年が経過していたと推察される義時に、新たな恋が芽生えました。
相手は鎌倉殿の大倉御所につとめる女官・比奈(姫の前)です。
『吾妻鏡』にはこうあります。
「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なり」
「権威無双」とか、「美麗」といった言葉が目に飛び込んできますね。
比奈(姫の前)の特徴を文意からまとめてみましょう。
◆比奈(姫の前)とは?
経歴:比企尼の子・籐内朝宗(比企朝宗、比企藤内朝宗とも)の娘であり、つまりは比企尼の孫娘にあたる
見た目:美女
特徴:他に類を見ないほどパワーを振るっている!※ 源頼朝もお気に入り
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こうした女性を表現する言葉はこれでしょう。
高嶺の花――。
凄まじい美人で素敵なだけでなく、ツンケンしていてなかなかデレない。
日本人にとってお馴染みの典型例は小野小町でしょう。
彼女は、深草少将という男性にアプローチされるも「百夜通ってきたら……」と条件を出し、その百日目に少将は大雪に遭って凍死してしまった――。
そんな創作話があり、史実ではありません。
しかしこうした話から、プライドの高い美女が魅力的だという日本人の感性が見えます。
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ドラマではどう描かれるか不明ですが、世間でも評判の美女・比奈(姫の前)に対し、史実の義時は、なんと一年以上も恋文を送り続けました。
そして建久3年(1192年)9月、見かねた頼朝が姫の前に命じます。
「絶対離縁しないと起請文を書かせるから、あの男と結婚してやってくれ」
かくして義時と姫の前の結婚はまとまったのです。
三人の子に恵まれるも引き裂かれ
義時が惚れて惚れてようやく結ばれた――そんな夫妻は子宝にも恵まれました。
建久4年(1193年)に朝時が生まれると、建久9年(1198年)には重時が誕生。
生年不詳の女子・竹殿も、姫の前が母とされています。
しかし、残念ながら夫婦生活は末永く……とはなりませんでした。
建仁3年(1203年)9月に【比企能員の変】が起き、比企一族は滅亡するのです。
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政争の相手は、他ならぬ北条氏。
姫の前は命こそ助けられましたが、二人は離縁となってしまいました。
程なくして姫の前は上洛して源具親と再婚し、元久元年(1204年)には輔通を生んでいます。
そして承元元年(1207年)3月、死去したとされます。
『草燃える』では野萩
『鎌倉殿の13人』はドラマです。
歴史フィクションは残された史料を元に、当時の価値観を考証しつつ、膨らませることができます。
義時の妻の姿をどう描くのか?というのは制作者の判断次第。
姫の前が大河ドラマに顔を見せるのは、1979年『草燃える』以来、二度目となりますが、その劇中で「野萩」という名だった彼女とは、別の解釈となるのではないでしょうか。
野萩についてまとめてみましょう。
一人目の妻・茜(鎌倉殿の13人では八重)と悲劇的な死別をした義時に、気になる女性が現れた。
野萩だ。
懸命に史実通りアプローチをするが、比企一族からすれば、成り上がりの義時は話にならない相手。
野萩は美しい。あの男も目をつけていた。
好色な源頼朝である。
野萩は怯えてしまう……もしも、頼朝に手をつけられたら、御台所である政子が激怒する!
頼朝はそんな野萩の気持ちはお構いなしで迫ってくるし、政子も勘づいてるし……こうなったら、あの男を使っちゃえ!
「私をお嫁さんにして!」
こうして野萩と義時の二人は夫婦となった。
頼朝はガッカリ。政子はしてやったり。
坂口良子さんが演じる気品ある美女――それが野萩の物語ですが、前述の史実とは異なりますね。
頼朝は起請文を書かせ、積極的に義時と姫の前を結びつけています。
『草燃える』での頼朝は、野萩をものにする気満々でした。
これを受けて『鎌倉殿の13人』ではどうなるか?
注目したいのは比企一族のあの女性です。
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