頼家の仮面

『修善寺物語』岡本綺堂作/amazonより引用

源平・鎌倉・室町

不気味すぎる頼家の仮面と『修禅寺物語』の恐怖 鎌倉殿の13人考察

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第33回放送「修禅寺」で、最も印象深かったのが、あの“お面”でしょう。

あれは一体なんなんだ?

とにかく不気味としか言いようがない……。

そんな印象を抱いた方も少なくないと思われますが、結論から申しますと「頼家の仮面」として修禅寺に伝わるもので、驚くことに現地に行けば今も閲覧可能。

かつてはそのお面をもとに『修禅寺物語』という物語も作られたほどで、昔からいわくつきのものでした(本稿のTOP画像/amazonより引用)。

鎌倉殿の13人により、再び視聴者の心をざわつかせている、謎のお面について考察してみたいと思います。

 

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謎に包まれているからこそ、興味を掻き立てる

前述の通り「頼家の仮面」という名で呼ばれるあの面は、修禅寺の寺宝として伝わっています。

ご興味を持たれた方は以下のリンクを参考に、現地へ足を運ばれるのも一興でしょう。

◆修禅寺寺宝 頼家の仮面(→link

それにしても謎が多い仮面ではあります。

作者は誰なのか。

なぜ作られたのか。

何が目的だったのか。

そういった詳細は全くわかっていない、にもかかわらず、ひと目見たら忘れられない異様な雰囲気があり、だからこそある物語(戯曲・小説等)が作られました。

それが岡本綺堂作の『修禅寺物語』です。

本稿のトップ画像にもなっている文庫本であり、現在は、青空文庫でもご覧いただけます(→link)が、一体どんな内容なのか?

 

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面に伝えられた伝説とは

修禅寺に伝わる頼家の面――そこには不気味な伝説があります。

命を狙われ、食事に毒が混ぜられた頼家。

漆を浴びせられたとも伝わり、そのため顔がおそろしいほどただれてしまいました。

自らの顔が崩れていく様を、わざわざ木彫りにしてまで残したのは、それを見せつけるためだったと伝わります。

では誰に見せつけるのか?

北条一族だろうとされていますが、真偽の程は不明です。

頼家のあまりに悲劇的な最期が、そういった恐ろしい伝説を生み出したのでしょう。

そしてそんな伝説を聞いて、面を眺め、夕刻に桂川のほとりを歩きながら、『修禅寺物語』の構想を練ったのが岡本綺堂です。

恐ろしい表情のお面といえば、能の般若を思い出す方もおられるかもしれません。

しかし、頼家の仮面は能にしてはサイズが大きく、用途がわからない。

一体何のためにこんなものが伝えられたのか?

歴史のミステリとも言えるでしょうか。

実は静岡県伊豆の国市には光照寺という寺があり、頼家ゆかりの「病相の面」が伝わっています。

こちらは頼家が病に苦しむ顔を、母である北条政子に伝えるために彫らせたという伝説があり、残念ながらこの面は非公開です。

では、戯曲『修禅寺物語』がどんな話だったのか?

以下にあらすじをまとめましたので、見てみましょう。

 

『修禅寺物語』あらすじ

ときは鎌倉時代のこと。

源頼朝の跡を継ぎ、二代目鎌倉殿となった頼家。

しかし実権は外祖父である北条時政に握られ、権力闘争に敗れた頼家は、ついに伊豆修禅寺へ追放されてしまいます。

修禅寺の近くには、面作りの名人・夜叉王が二人の娘と共に住んでいました。

姉の桂(かつら)は20歳。

この歳になるまで結婚しないのは、いつか貴人に召されるためと野心を抱いています。

妹の楓(かえで)は18歳。

父の弟子である春彦を夫とし、つつましく生きていました。

姉のかつらは不満を抱いていました。

父ほどの名人ならば、鎌倉にいればさぞや依頼が殺到するだろう。

そうなれば、自分とて貴人の目通りが叶い、寵愛されることも夢ではないはず……。

それなのに、野心もなく、ただひたすら面作りに打ち込む父に呆れるばかり。

そんな家に、僧と供を連れた、お忍びの頼家が訪れました。

春に頼んだ面が半年を過ぎてもできない。

いつになったら面ができるのか?

イラ立つ頼家に対し、夜叉王は「できぬ」と言うばかり。怒った頼家が太刀を抜こうとすると、かつらが面を出してきます。

実は、完成していたのです。

その面は頼家の秀麗な顔によく似ていて、頼家も満足げ。これほどのものができているのに、そう言わなかった夜叉王の気が知れぬと、共の僧も言うほどでした。

頼家が、ふとかつらに目を留めました。そしてこの娘を側に置いて召し使いたいと夜叉王に伝えます。

首尾よく貴人の目に留まったかつら。絶好の機会を逃すわけがありません。

かつらの願いは叶いました。

褒美は後日にすると去って行く頼家たち。夜叉王は嘆き、家にある面を叩き壊そうとします。

あんなものが伊豆の夜叉王の作品とされるのは恥だ!

そう嘆く父に向かって、妹のかえでは「もっとよいものを作って恥を雪げばよい」と慰めます。

一方、望みが叶い、将軍の側に侍ることとなったかつら。

桂川のほとりで道すがら、かつらは頼家に「以前お会いしたことがある」と伝えると、頼家も思い出しました。

喜ぶかつらに、頼家は「武運つたなき己に侍るのがそんなに嬉しいのか?」と問います。

そして、かつて愛した若狭局にちなみ、二代目若狭と名乗るようかつらに告げるのでした。

由緒ある名に喜ぶかつら。

しかし頼家には、不安がありました。

自分も、かつてここで命を落とした蒲殿(頼家の叔父・源範頼)のようになるかもしれぬ。

するとそこへ、北条家から金窪行親が遣わされてきました。

追い払おうとする頼家に対し、かつらに目を留めた行親が言い放ちます。

なぜ、こんな下賤な女を召したのか。北条の許しもなくそんなことをしたのか。

結局、頼家に追い払われた行親は、彼らの前から去ると、武装した北条の者たちに何事かを告げました。

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