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【矢部禅尼】
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彼女の子が執権を継いでいく
宝治合戦とは、宝治元年(1247年)に起きた北条と三浦の権力闘争です。
『鎌倉殿の13人』の舞台からは少々先の時代に起きた内紛であり、結論だけを申しますと、三浦一族が敗北します。
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となれば矢部禅尼も立場を失いそうに思えるでしょうか。
しかし、彼女の子である盛時は北条方につき、後に三浦家再興を果たしました。
三浦義村の子孫は【宝治合戦】で全滅したわけでありません。
男系ならば確かにそうですが、女系が残り、三浦家を再興させたのです。
そして建長8年(1256年)――矢部禅尼は70歳で生涯を終えました。
泰時と矢部禅尼の子・北条時氏は若いうちに亡くなってしまいますが、血統は途絶えず、彼女の孫にあたる北条経時が第4代執権、北条時頼が第5代執権となっています。
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北条の泰時と、三浦の初(矢部禅尼)の子が、執権を代々継いでいったのです。
なんと不思議な史実でしょうか。
北条と三浦はライバルともされます。
そのライバル同士が夫婦となり、両者の血により執権が引き継がれていったのですから、興味深い。
三浦の血は、女系を通して残り、矢部禅尼の遺した足跡は大きなものがあります。
謎多き生涯だからこそ
矢部禅尼は、その血が三浦氏、北条氏、会津蘆名氏に連なる重要人物です。
しかし記録は少なく、確たる史実がわかりにくいことも特徴。
そんな彼女を『鎌倉殿の13人』ではどう描くのか。
特に泰時との離縁は、確たる時期すら明確ではありませんし、理由も不明ですからどう描かれても問題はありません。
そもそも、幼なじみで八重に育てられたという設定については創作でした。
本役を演じる福地桃子さんはこのようにコメントしています。
初という役を演じている中で、育ての母である八重さんのおもかげをとても感じます。
泰時さんを支えていく強さと優しさが共存している初を通して、皆さまに楽しんでいただけますように精いっぱい向き合いたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。
泰時の母が八重であるという設定は、考証をふまえた『鎌倉殿の13人』の設定であり、八重に育てられた初というのも範囲内です。
父の義村も、なかなか個性的である初。
あの癖の強い父に似ていたら、離婚に至るすれ違いが生じるのかもしれませんし、彼女の深慮遠謀があったからこそ、三浦一族が復興したのも確か。
そんな聡明さも父に似たのか。今後の放送が楽しみでなりません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで』(→amazon)
高橋秀樹『三浦一族の中世』(→amazon)
高橋秀樹『北条氏と三浦氏』(→amazon)
峰岸純夫『三浦氏の研究』(→amazon)
他