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【勘合貿易(日明貿易)】
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四代・義持の代で中断 六代・義教で再開する
義満の息子である四代将軍・足利義持の頃になると、若干、風向きが変わります。
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「勘合貿易はさすがに費用がかかりすぎるし、朝鮮や琉球と中継貿易にすれば良くない?そうすれば朝貢にならないし」
そんな声が強まり、一旦明との貿易は中断されます。
しかし、結局は利益の大きさが優先され、六代将軍・足利義教の頃に復活。
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義教というとドギツイ話のほうが多いだけに、ちょっと意外な感じもしますね。
【応仁の乱】以降は、無駄な身内争いのせいで幕府も遣明船の費用が賄えなくなり、裕福な商人に貿易を代行させるようになりました。
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商人にとっても命がけなわけですが、莫大な利益を目的に引き受けていたようです。
やはり、いつの時代も世の中、お金なんですなぁ。
そもそも日本国内で流通させる銅銭を輸入している段階でそういうお話でもあるんですが。
また、文明十五年(1483年)に派遣された遣明船は、大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していたため、収益の一部が朝廷に献上されたとか。
もはや幕府のためだけでなく、朝廷の財政に余裕を持たせるためにも、明との貿易は欠かせないものになっていた……ともとれます。
他には、管領家の一角・細川氏なども大々的に日明貿易を行っていました。
「そんな余力があるならとっとと応仁の乱を終わらせておけばよかったのに……」
そうツッコミたくなってしまうのは、平和を尊ぶ現代人の思考ですかね。
勘合→日明→朱印船
この辺りから、時系列としては戦国時代に入ります。
上記の通り、大内氏が特に大規模な貿易をしていたのですが、大内義隆が痴情のもつれをきっかけに滅ぼされた後にちょっとしたトラブルが起こります。
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義隆が滅んだときに実子たちも自害したため、義隆が生前に迎えていた猶子・大内義長が大内氏の当主となりました。
当然、義長は義父と同じように明との貿易もやろうとしたのですが、明からすれば詳しい経緯なんて知りません。
「え、あの家って養子が継いだの? もしかして簒奪とか? そんなヤツと取引したくないんだけど」
そうして断られてしまっています。
大内義長は大友宗麟の弟ではありますが、彼らの母親が大内義隆の姉妹なので、簒奪とも言い切れないんですが。
そもそも大内家(陶晴賢)に請われて跡継ぎになっているわけですし……。
しかしその後、義長も滅ぼされて大内氏は断絶、日明間の公貿易も途絶えてしまいました。
不思議なのは明の海禁政策が緩和されたこともあって、その後のほうが輸出入が増えたことでしょうか。
「国がやるとダメだけど、民間がやったらうまくいきました」なんてのもよく聞く話。今も昔も変わらないのかもしれません。
豊臣秀吉以降、徳川家康も含めて、大陸との交易は、朱印状を持った船による【朱印船貿易】に移り変わっていきます。
朱印状とは、権力者の貿易許可証です。
秀吉の時代に、明の征服を視野に入れた文禄・慶長の役が起きているので忘れられがちですが、最初から大陸にケンカを売っていたわけではないんですね。
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ここでいったん、室町時代の日明間のお付き合いをマトメておきましょう。
◆勘合貿易(室町幕府などが主導)
↓
◆日明貿易(私貿易・密貿易)
↓
◆朱印船貿易(秀吉・家康)
ぶっちゃけ、全て「日明貿易」でいい気がするんですけど……教科書的にはそうもいかないんですよね(´・ω・`)
そんな身も蓋もない話で終わるのも締まりがないので、品目の中身についてもう少し見ておきましょう。
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