勘合貿易(日明貿易)

足利義満と日明貿易船旗/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

勘合貿易(日明貿易)は利益20倍で爆儲け!日本刀を輸出して生糸や銅銭をゲット

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
勘合貿易(日明貿易)
をクリックお願いします。

 


四代・義持の代で中断 六代・義教で再開する

義満の息子である四代将軍・足利義持の頃になると、若干、風向きが変わります。

足利義持
4代将軍・足利義持は地味だけどハイスペック?父義満を乗り越えて

続きを見る

勘合貿易はさすがに費用がかかりすぎるし、朝鮮や琉球と中継貿易にすれば良くない?そうすれば朝貢にならないし」

そんな声が強まり、一旦、明との貿易は中断されます。

しかし、結局は利益の大きさが優先され、六代将軍・足利義教の頃に復活。

足利義教
足利義教は“くじ”で決められた将軍だった?万人恐怖と呼ばれた最悪の治世

続きを見る

義教というとドギツイ話のほうが多いだけに、ちょっと意外な感じもしますね。

応仁の乱】以降は、無駄な身内争いのせいで幕府も遣明船の費用が賄えなくなり、裕福な商人に貿易を代行させるようになりました。

応仁の乱
応仁の乱って一体何なんだ?戦国時代の幕開け乱戦はどうやって全国へ拡散したか

続きを見る

商人にとっても命がけなわけですが、莫大な利益を目的に引き受けていたようです。

やはり、いつの時代も世の中、お金なんですなぁ。

そもそも日本国内で流通させる銅銭を輸入している段階でそういうお話でもあるんですが。

また、文明十五年(1483年)に派遣された遣明船は、大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していたため、収益の一部が朝廷に献上されたとか。

もはや幕府のためだけでなく、朝廷の財政に余裕を持たせるためにも、明との貿易は欠かせないものになっていた……ともとれます。

他には、管領家の一角・細川氏なども大々的に日明貿易を行っていました。

 


勘合→日明→朱印船

この辺りから、時系列としては戦国時代に入ります。

上記の通り、大内氏が特に大規模な貿易をしていたのですが、大内義隆が痴情のもつれをきっかけに滅ぼされた後にちょっとしたトラブルが起こります。

大内義隆
西国一の戦国大名だった大内義隆はなぜ滅んでしまったのか?45年の生涯まとめ

続きを見る

陶晴賢
なぜ戦国時代の大内家重臣・陶晴賢は下剋上を起こし最終的に毛利に滅ぼされたのか

続きを見る

大内義隆が滅んだときに実子たちも自害したため、義隆が生前に迎えていた猶子・大内義長が大内氏の当主となりました。

当然、義長は義父と同じように明との貿易もやろうとしたのですが、明からすれば詳しい経緯なんて知りません。

「え、あの家って養子が継いだの? もしかして簒奪とか? そんなヤツと取引したくないんだけど」

そうして断られてしまっています。

大内義長は大友宗麟の弟ではありますが、彼らの母親が大内義隆の姉妹なので、簒奪とも言い切れないんですが。

そもそも大内家(陶晴賢)に請われて跡継ぎになっているわけですし……。

しかしその後、義長も滅ぼされて大内氏は断絶、日明間の公貿易も途絶えてしまいました。

不思議なのは明の海禁政策が緩和されたこともあって、その後のほうが輸出入が増えたことでしょうか。

「国がやるとダメだけど、民間がやったらうまくいきました」なんてのもよく聞く話。今も昔も変わらないのかもしれません。

豊臣秀吉以降、徳川家康も含めて、大陸との交易は、朱印状を持った船による【朱印船貿易】に移り変わっていきます。

朱印船貿易で活躍した角倉船団/国立国会図書館蔵

朱印状とは、権力者の貿易許可証です。

秀吉の時代に、明の征服を視野に入れた文禄・慶長の役が起きているので忘れられがちですが、最初から大陸にケンカを売っていたわけではないんですね。

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年

続きを見る

文禄・慶長の役
秀吉晩年の愚行「文禄・慶長の役」なぜ明と朝鮮を相手に無謀な戦へ突き進んだのか

続きを見る

ここでいったん、室町時代の日明間のお付き合いをマトメておきましょう。

◆勘合貿易(室町幕府などが主導)

◆日明貿易(私貿易・密貿易)

◆朱印船貿易(秀吉・家康)

ぶっちゃけ、全て「日明貿易」でいい気がするんですけど……教科書的にはそうもいかないんですよね(´・ω・`)

そんな身も蓋もない話で終わるのも締まりがないので、実際にどんな品目が取引されたのか?その中身について、もう少し見ておきましょう。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-

×