文禄・慶長の役

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用

豊臣家

文禄・慶長の役|朝鮮と明を相手に無謀な出兵を強行した秀吉晩年の愚行

2025/04/11

かつては【朝鮮出兵】とも呼ばれ、豊臣政権の滅亡へ繋がったとも囁かれる【文禄・慶長の役】。

開戦当初は、加藤清正らの活躍華々しく一気に半島深くまで攻め込みながら、結局は伸び切った戦線を維持できず、戦場では石田三成らへの憎悪も生まれ、豊臣秀吉が死ぬとようやく停戦――。

そんな印象を抱いている方が多いでしょう。

と同時に、皆さんこんな疑問をお持ちではありませんか?

なぜ豊臣秀吉は朝鮮へ攻め込み、無謀な戦いを強行したのか?

そもそも無謀な戦いだったのか?

天正20年(1592年)4月12日は、秀吉軍の第一陣である宗義智と小西行長の部隊が釜山に上陸した日(国史大辞典準拠)。

文禄・慶長の役を振り返ってみましょう。

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文禄・慶長の役 5W1H

【文禄・慶長の役】とは、どんな戦いとなったのか?

なぜ秀吉は戦いを始めたのか?

豊臣秀吉/wikipediaより引用

まずは基本の5W1Hから確認してみましょう。

When(いつ?):天正20年4月12日(1592年5月23日)~文禄2年7月9日(1593年8月5日)

Where(どこで?):朝鮮半島

Who(だれが?):豊臣秀吉

What(何を?):明を征服する

Why(なぜ?):後述

How(どのように?):武力制圧

明を武力制圧するため、朝鮮へ出兵する――。

一行で書いてしまえば「そうなのか……」という話かもしれませんが、実はこれ、歴史的にはあまりに突拍子な出来事でした。

とにかく発想からして“異様”というほかなく、国内の天下統一を成し遂げたから外征に向かおう!なんて考えは、それまでの日本だけでなく、中国や朝鮮半島の支配者にもありません。

「大河ドラマなどで、この出来事が取り上げにくいのは韓国に反発されるから」

そんな指摘もあったりしますが、そもそも歴史上の事件として取り扱いが非常に難しい。

惣無事令で日本を制圧した秀吉が、海外への野望を抱いたのは、奥羽を押さえ、戦備を整えたとき辺りからとも指摘されます。

しかし、足軽から天下人にまでなった聡明な人物が、なぜこんな無茶苦茶な戦いを始めたのか、というのはとにかく謎でした。

 


なぜ秀吉はこんな無茶を押し進めたのか

なぜ秀吉は出兵を思い立ったのか?

その動機としては次のようなものが挙げられます。

・金銀の採掘が進み、日本には十分富がある!と自信過剰になった

・【文官上位】の明や朝鮮は、弓馬の道を極めた武士の国である日本よりも文弱であるという偏見を抱いた

・【大航海時代】で海洋進出してきたスペインやポルトガルに影響された

・鶴松の死による絶望感を晴らしたかった

・織田信長の遺志を継ぐという可能性

こう理路整然と並べられると、開戦に踏み切った秀吉の気持ちも少しはわかるような気もしてきますが、それでも理解できない要素は多々あります。

いくつか挙げてみましょう。

・天下統一を成し遂げたとはいえ、豊臣政権存続のため他にすべきことは大量にあったはず

・この兵力があれば、それこそ徳川家康を潰せたのでは?

・合戦における秀吉の強みは「磐石な兵站」のはずなのに、なぜ杜撰な計画が押し通されたのか

・誰も秀吉を止められなかったのか?

外ではなく国内に目を向ければ、どう考えたって不条理であり不可解。

こんなモヤモヤした状態では、ドラマや漫画でも描きにくいことでしょう。

豊臣秀吉周辺の誰か、たとえば徳川家康が「こんなことは嫌だね」とか言いつつ、仕方なしに従うのであればまだわかります。

徳川家康/wikipediaより引用

しかし、豊臣政権側から積極的に正しい行動として描くのは厳しい。

加藤清正の虎退治だとか。

島津が「石曼子(シーマンズ)」と恐れられたとか。

面白エピソードやピンポイントの自慢はできるかもしれませんが、戦略そのものが誤っていて、とてもスカッとした英雄譚にはできません。

鎌倉時代の【元寇】も似たような状況かもしれません。

そもそも元に侵攻の意図はあったのか?

使節を切り捨てるなど、鎌倉幕府の外交姿勢に問題があったのでは?

そう考えていくと、とても美談にはできない。

華々しい話だと思っていたのに、実際に辿ってみると苦々しい話がでてくる――それが歴史の特徴でもあり【文禄・慶長の役】にも同じことが言えるのでしょう。

その実際の始まりは天正17年(1589年)からでした。

 

序盤の快進撃

その年、秀吉が朝鮮国王に参内を求めると、翌天正18年(1590年)、朝鮮使節が日本を訪れました。

明を征服するため、日本の支配下となれ――。

秀吉は突如そんな無謀な要求を朝鮮に出したのですが、朝鮮側としては単なる挨拶として秀吉の前に現れていました。

実は、間に入った対馬の宗氏が内容を勝手に書き換えていたのであり、当然ながら秀吉の要求は無視されます。

そこで秀吉は、天正19年(1591年)には軍備を整え、天正20年(1592年)正月5日、軍令を受けた諸大名が続々と肥前名護屋に集結しました。

拠点となった名護屋城の本丸と遊撃丸(ドローンで空撮)

その数16万という途方もない軍勢。

先陣の小西行長・宗義智が朝鮮半島の釜山へ上陸したのは同年4月12日のことです。

緒戦は思い通りに進軍を進め、5月3日には漢城(現ソウル)を陥落せしめ、王族までとらえるほどの戦果を挙げました。

統治に不満を抱く朝鮮の民衆が味方につくこともあり、当初は西国大名を中心に、快進撃が続きます。

これを受け、明では朝鮮救援を決定しました。

秀吉による明征服の意図は、琉球などからの報告によって察知しており、明としても、そのまま見過ごすことはできません。

確かに明は【文官上位】の国でしたが、だからといって軍勢が弱いか?というと決してそうではありません。

大砲の威力では日本を上回り、甲冑の堅固さにはまるで歯が立たない――そんな記録も残されるほど。

明は、滅亡時にあっさり敗れた印象が強いからか、後世でもそうした過小評価がされがちなだけでしょう。

そもそも日本から半島へ渡海し、戦線が伸び切った状態では、兵站も不十分であり、日本側がいつまでも有利ではいられません。

一気に深く侵攻するよりも、進軍エリアを統治し、敵からの反撃に対して持ち堪えることのほうがはるかに重要。

その視点が決定的に欠けるのが文禄・慶長の役であり、だからこそ「秀吉らしからぬ失態」として疑問視されるのです。

 

朝鮮水軍と義兵反撃

天正20年(1592年)6月、一気に平壌まで陥落せしめた快進撃の報に秀吉は大喜び。

自らも渡海して戦場に出向こうとするも、周囲の必死の説得により止められています。

合戦が進むに連れ、朝鮮水軍の反撃が強まっていたのです。

その反撃を担った将が李舜臣(イ・スンシン)であり、救国の英雄として名高い人物。

李舜臣/wikipediaより引用

【亀甲船】を生み出したということでも知られる人物ですね。

水戦は逃げ場がなく、乗船ごと沈められたら危険です。渡海の最中を狙われたら?と考えたら、あまりにリスクが高い。

朝鮮半島では、水軍だけでなく、義兵の蜂起もありました。

秀吉軍に反抗する義兵の活躍が目立ち始めたのですが、この戦乱を扱った韓流ドラマの定番人物像として、義に篤い妓女があげられます。

艶かしく倭の将をもてなしながら、機密情報を掴む勇敢な女性です。

こうした勇敢な妓女は当時から伝説として語り継がれてきており、フィクションの造型として受け入れられやすい。

蜂起した義兵は、兵糧の焼き捨てといった形で抵抗し、これまでねじ伏せられてきた秀吉軍に対抗します。

こうして半年ほどの快進撃の後、徐々に日本の軍勢は旗色が悪くなってゆきました。

そこへ明軍も到着――。

日本国内では、秀吉にとっても思わぬ事情が生まれます。母である大政所が亡くなり、さらには朝廷からも渡海を止められてしまうのです。

秀吉としては自ら渡海することで膠着状態を打開したい。

しかし、朝廷だけでなく、徳川家康からも止められてしまう。当初の勢いは急速に失われ、局面は打開できずに硬直してゆきました。

 


日・朝・明の間で全く噛み合わない

夏から秋へ季節がうつると、兵糧問題はさらに悪化。

年末には朝鮮・明軍による平壌攻撃が始まり、宗義智と小西行長らの守将は撤退するほかありません。

この敗戦は、あけて文禄2年(1593年)には秀吉の下へ届けられます。

それまでの間、加藤清正と明側の交渉もありましたが、明側からすると理解に苦しんだでしょう。

「切り取った朝鮮の領土支配を認めろ!」

清正はそう主張しますが、明からすれば全く道理が通りません。

加藤清正/wikipediaより引用

切り取った領土を自分のものとするのは、日本国内だから通じる話。

「あなたが勝ったのですから、はい、どうぞ」なんて明や朝鮮が認めるわけがなく、日・朝・明の間で話が全く通じず、事態はどんどん悪化してゆきます。

苦戦の一報を受けた日本側は、東国勢の追加投入を決定しました。

半島への渡海は、西日本の軍勢から優先的に行われていました。地理的に優先順位の低い、出羽の最上義光が、赤裸々な心境を書き記しています。

徳川家康公から渡海はないと言われた。

本当にそうなって欲しい。

生きているうちにもう一度、最上の土を踏みたい。

水をいっぱい飲みたい。

一方で明側にも、秀吉軍と戦うメリットは全くありません。

明は自国が上である立場を振りかざし、抗戦を訴える朝鮮の主張を無視して、日本と和平交渉を進めようとします。

朝鮮側の意向を一切無視した明の交渉は、決して褒められたものではありません。

そのため交渉には不信感が漂い、次第に暗礁へ乗り上げてゆくのでした。

 

膠着の転換点

文禄2年(1593年)は、泥沼の戦いにようやく訪れた転換点となりました。

小西行長に連れられた明使が九州の肥前名護屋へ到着するのです。

小西行長/Wikipediaより引用

秀吉は、明が詫び言を言ってくると解釈し、楽観視していました。

そこで、こんな条件を出しています。

・明の皇女を天皇の后妃として差し出す

・日明貿易の復活

・日明朝臣間で誓詞を交わすこと

・朝鮮国四道の支配

・捕縛した朝鮮王子の返還

・朝鮮国側が違約しないと誓詞を書くこと

秀吉はそれまで「高麗」と呼んでいたのを「朝鮮」と改めています。

自身が治める国として認識したのでしょう。

この講話と並行して、晋州城の攻略戦が行われていました。

晋州城牧使の首を京都に持ち帰って晒すことで、秀吉は大明征服はできずとも、海外雄飛が成し遂げられたと喧伝したのです。

この晋州城攻略で、とりあえずの戦闘は終わります。

フロイスはこの戦役で15万人が渡海し、5万人が死亡したと概算。

戦死というより、労苦、疫病、飢餓、気候によるものだと目されています。

秀吉は西国大名を朝鮮に置き、仕置のための築城を命じています。それを終えて名護屋に戻ったあと、秀吉ともども京都へ凱旋するというシナリオがありました。

実質的には敗北しているのに、勝利を取り繕おうとしていたともいえる工作です。

しかし、それも慶事により失敗に終わります。

淀殿が第二子・拾(後の豊臣秀頼)を産んだと知ると、秀吉は諸将を待たずに名護屋を出立してしまったのです。

豊臣秀頼/wikipediaより引用

朝鮮では休戦となり、置き去りにされた諸将が城を構築する状況です。

兵糧も底をつき、不信感にとらわれ、【降倭】となり、朝鮮側につく者すら出ました。

文禄3年(1594年)は膠着状態が続き、文禄4年(1595年)に入ると、明軍は朝鮮から撤兵していました。

秀吉は関白・豊臣秀次の派遣を決め、またも名護屋へ本陣を置くこととします。

このころ、明としても終結を模索していました。

彼らにしてみれば何のメリットもない戦い。秀吉の降伏という形式で落とし所を模索していたのです。

 


落とし所を探る日明だが

かくして明使・沈惟敬と小西行長が釜山で交渉することになり、以下のようにまとめられました。

・朝鮮王子一名を秀吉のもとへ送る(この王子を大名として朝鮮四道を支配させる)

・日本側が築いた15ヶ所の城うち、10は破棄とする

・明は和平案を受け入れる

朝鮮の意向抜きで落としどころを探った交渉結果でした。


日本
朝鮮

この枠組みの中で収めようとしています。

明としては譲歩したのでしょう。

しかし、このとき日本では大事件が起きていました。

拾(豊臣秀頼)の誕生は、それまで秀吉の後継者とされていた関白・豊臣秀次の猜疑心を掻き立てたのか。

両者に行き違いが生じ、秀次が高野山で腹を切ると、その後、秀次の妻子が大量に処刑されてしまうのです。

豊臣秀次/wikipediaより引用

さらには大地震も起きたところで、明使が大坂を訪れ、秀吉と謁見。

会談そのものはどうにか終わったものの、提示された諸条件に秀吉が怒り、交渉は決裂してしまいました。

最大の怒りは、朝鮮側から王子が来ないことでした。

かくして理不尽な怒りのまま、再征への不穏さが募ってゆきます。

 

秀吉の死による終焉

文禄5年(1596年)改め慶長元年、再度出兵への機運が高まります。

小西行長・加藤清正らが名護屋から渡海し、朝鮮を踏み躙りながら進軍しました。島津勢、鍋島勢も激しい勢いで突き進みます。

中でも蔚山(うるさん)での攻防戦は、明・朝鮮と死闘が繰り広げられたものとして記録されました。

『蔚山籠城図屏風』/wikipediaより引用

こうして各地で激闘が繰り広げられながら迎えた慶長3年(1598年)。

張本人の豊臣秀吉が世を去り、戦闘継続の意義は一気に失われます。

和平交渉が進められ、明軍が完全に撤退したのは慶長5年(1600年)のこと。

【文禄・慶長の役】は、豊臣政権にとって百害あって一利なしに終わりました。

豊臣秀吉の亡き後、天下を取ったのは嫡子の豊臣秀頼ではなく、徳川家康です。

家康のなすべきことは朝鮮・明との国交回復であり、程なくして朝鮮とは和平を取り戻すも、明とは叶うことはありません。

1644年に滅亡に瀕した明朝の遺臣は、家光時代を迎えていた幕府に対し、復明のための援軍を要請します(【日本乞師】)。

しかし日本はこれを断り、次の清朝と国交を結んだのです。

両国ともに【海禁】をとり私的な貿易は制限される中、長崎出島には清人が訪れ交易をしました。

出島/wikipediaより引用

そんな清人のもとには、漢詩の添削を求める日本人がしばしば訪れたとか。

朝鮮からは【朝鮮通信使】を迎えました。

色鮮やかな彼らの行列を見るべく、日本人は興味津々で道ぞいに集まり、一方で朝鮮使たちは、京都であるものを見て号泣したとされます。

【耳塚】です。

文禄・慶長の役のときに朝鮮半島から送られ、塩漬けにされた耳や鼻がそこに葬られたと聞き、彼らは泣き崩れたのです。

今に至るまで、慰霊祭が開催されています。

 


陶工が伝えた技

文禄の役と比較して、慶長の役は人的損害が大きくなりました。

民衆を捕え、捕虜としたからです。

歴史を見ると、これと似た例が第二次世界大戦末期にあります。

ソビエト連邦はこの戦争で最大の犠牲者数を出したにもかかわらず、【大西洋憲章(1941年8月)】と【カイロ宣言(1943年11月)】により領土不拡大が決定されました。

領土が獲得できないのであれば、せめて人だけでも得たい。

そう考えたのか、技術者や働き手になりそうな日本人が、満洲や樺太で捉えられ、働き手とされたのです(【シベリア抑留】)。

文禄・慶長の役で、もっとも珍重された捕虜が陶工でした。

朝鮮は、当時、世界最高級とされる美しく繊細な磁器を生産していました。そんな陶工を日本に連行すれば、垂涎ものの技術が得られます。

例えば、島津義弘により薩摩へ連れて来られた沈壽官(ちん じゅかん)は、その中でも代表的な存在でしょう。

島津義弘/wikipediaより引用

『火の女神ジョンイ』のヒロインモデルとされるのは、百婆仙という名で呼ばれた女性陶工であり、「有田焼の母」とされます。

このように日本には【文禄・慶長の役】がもたらしたものも残されています。

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文禄・慶長の役を扱うジレンマ

文禄・慶長の役というと、日本では、こんなぼやきも時折聞こえてきます。

「どこぞの国がうるさいから、豊臣秀吉がドラマにできないんだよ」

一見もっともな理屈にも思えます。漫画『花の慶次』でも、原作では朝鮮出身だった女性が、漫画化の際には琉球人に変更されました。

しかし、それはあくまで日本側の勝手な配慮。

韓国から確たる圧力があったと証明できないのであれば、陰謀論の類に過ぎません。

【文禄・慶長の役】を描けないのであるとすれば、それは海外の誰かのせいではなく、「一方的に攻め込んでいった」日本側の歴史認識が問われるからではないでしょうか。

『朝鮮戦役海戦図屏風』/wikipediaより引用

実は呼称ひとつ取っても各国の考え方が浮かんできます。

韓国語「임진왜란(壬辰倭乱)」:干支が壬辰のときに起きた倭による戦乱

中国語「万历朝鲜之役」:万暦年間に朝鮮で起きた戦役

英語「Japanese invasions of Korea (1592–1598)」:日本による朝鮮への侵攻

国際的には英語での認識が一般的であり、日本語による【文禄・慶長の役】という表記が最もわかりにくいかもしれません。

文禄と慶長に起きたというだけで、誰がどこへ攻めたのか不明。

その点、韓国で、この出来事の関連作品が作られやすいのは理解できるでしょう。

理不尽な侵略に対し立ち上がる姿は、普遍的な高揚感をかきたてる――【百年戦争】のフランスとイギリスの温度差も同じですね。

フランスの場合、ジャンヌ・ダルクを救国の聖女として描くことはごく当然のこととされます。世界的にも彼女は有名です。

一方でイギリスにとって百年戦争は、自らの理不尽な侵略であり、気まずい。

シェイクスピア劇なら古典ということで弁解できなくもありませんが、それでも魔女扱いされるジャンヌ・ダルク像は悪意を感じさせます。

『ヘンリー五世』の【アジンコートの戦い】における「アジンコートの演説」は、俳優ならば一度は演じてみたい名場面ですが、あくまで文学の範囲内であり、史実におけるヘンリー5世となると擁護はしにくい。

シェイクスピア劇ではない歴史フィクションのヘンリー5世は、極めて残酷、かつ子孫に負荷を残した君主として評価されます。

このように、日本でも文禄・慶長の役を美化する作品そのものが生まれにくい状況がありました。

ゆえに、この戦いを華々しく描くのは、これから先も韓国作品になりそうです。

なお、韓国や中国時代劇における日本人描写が無茶苦茶というのも、最近は改善されてきています。

時代考証も確かであり、日本人ルーツの俳優が演じることもあります。古い映像作品のイメージで語らぬよう、情報を更新したいものです。

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【参考文献】
中原等『文禄・慶長の役』(→amazon
福田千鶴『淀殿』(→amazon
金文吉『麒麟よこい』(→amazon
本郷和人『日本史のツボ』(→amazon
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』(→amazon
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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