各幕府の二代将軍ってかなり地味で、なぜか三代目はそこそこ目立ちますが、四代目になると、また地味になると思いません?
お名前、言えたりします?
元中三年=至徳三年(1386年)2月12日は、室町幕府四代将軍・足利義持(よしもち)の誕生日。
まだ南北朝時代のため元号が二つある時代でしたが、そこは気にせず義持の足跡を見て参りたいと思います。
なお、各幕府の初代~四代目は以下の通りです。
◆鎌倉幕府
初代・源頼朝
二代目・源頼家
三代目・源実朝
四代目・藤原頼経
◆室町幕府
初代・足利尊氏
二代目・足利義詮
三代目・足利義満
四代目・足利義持←ココ
◆江戸幕府
初代・徳川家康
二代目・徳川秀忠
三代目・徳川家光
四代目・徳川家綱
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父の義満は弟に愛情を注いでいた!?
足利義持はわずか9歳で将軍職を継ぎました。
父の足利義満は健在だったので、義持は権力のほとんどを握られたまま22歳まで過ごし、その分、とんとん拍子に官位は上がっております。
しかし、やはり心情的には愉快なものではありませんので、あまり親子仲はよくなかったようです。
一説には義持の異母弟・足利義嗣(よしつぐ)が生母ともども義満に寵愛されていたため、相対的に義持の扱いが冷たくなっていたともいわれています。
「兄より弟が可愛がられたせいでアレコレ揉める」ってもはや歴史の定番ですよね。
武家でこうなると内紛の予感がプンプンしますが、賢明なことに義持は、父が亡くなるまで大人しくしていました。
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その代わりなのか、義満没後は独自の政策を次々と打ち出していきます。
細かいことが多いので詳細は割愛しますけど、全体的に見ると単なる父への反発というよりは、父の代にあっちこっちにくすぶっていた不満を中和しようとしていろいろやったという感じがします。
明からの使者を追い返す( ´_ゝ`)
その中で地味に大きなことは、明(当時の中国)との関係を改めたことでした。
義満は明から「日本国王」と見なされ、冊封体制(中国の家来になるという意味)に日本が入ることを了承していましたので、当然ながら皇室や朝廷からは大不評でした。
しかし、義満の存命中は対抗できる力のある人がいなかったので、陰でイヤミを言うくらいが関の山。
それを知ってか知らずか。詳細は不明ながら、足利義持は父の没後、明からの使者を京都に入れず追い返しています。
現代の外交用語でいえば「ペルソナ・ノン・グラータ」=外交官の着任拒否ですかね。
どうでもいいですけどこれラテン語でして、話術者がいない言語がこういうところで出てくると厨二心をくすぐられます。
「義満の時代に勘合貿易が始まった」というのは皆さん学校で習ったかと思います。
その後、この単語が全く出てこないのは、ただ単に義持の時代に終わってたからなんですね。一応、後に復活してるんですが、そのときの将軍も教科書に出てきませんし。
ちなみに明からは当然激怒されましたが、義持はシカトを貫きました。度胸あるな。
金閣寺以外ブッコワシ!花の御所からお引っ越し
そんな感じで、義持は性格だけでなく父のやった事跡にもあまり好意的な印象は持っていなかったようです。
義満が建てたものは金閣以外ブッ壊しています。
住まいも「花の御所」(京都の室町というところにあった足利家の邸宅)から、祖父の足利義詮が住んでいた三条坊門殿に移しています。
しかも義満の四十九日が終わってすぐのこと。よほど花の御所がイヤだったんでしょうね。
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まあ義持にしてみれば、花の御所は幼少期に父から頭を押さえつけられていた記憶が色濃いでしょうから、離れたいと思うのも無理はありません。
義持は義詮没後の生まれなので実際に会っておらず、おじいちゃん子というわけでもないのですけどね。
他に適当な場所がなかったか、あるいは三条坊門殿の造りが気に入ったのかもしれません。
元々三条坊門殿が将軍の住まいとされていたのを、義満が花の御所を造ったためそちらに移ったということが気になったというのもありそうですね。この辺全部ひっくるめて、でしょうか。
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