勘合貿易(日明貿易)

足利義満と日明貿易船旗/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

勘合貿易(日明貿易)は最大利益20倍で爆儲け!だから倭寇も暗躍する

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銀・銅・明銭

明王朝では当初紙幣を作ったのですが、流通量が少なすぎて貨幣経済が立ち行かなくなりかけていました。

そのため、民衆はそれまで発行されていた銅銭や銀で取引をしたがります。

政府はこれを取り締まろうとしたものの、効果が薄く、やがて国内での銅の産出が滞り始めます。

「国内では使いたくないけど、世の中に出回ってる銭を全部回収するのも不可能だし、このまま流通させるのもやだな~。……って、なになに? 日本が銅銭を欲しがってる? なら輸出してやんよ」

という感じで、銅銭が輸出品になったのです。

日本ではこの時代、金属の精製技術が未発達だったため、自力で銅銭を作ろうとしても銅の含有率が低いものしか作れませんでした。

それに従って銭の価値と信用がガタ落ちし、貨幣の意味がなくなりつつある状態。

そんなタイミングで明で作られた比較的良質な銅銭が入ってきたので、これを使って貨幣経済が進むことになりました。

まとめると「明では銅銭を処分したいと考えていたところに、日本での需要ができたので、ちょうどうまくいった」という感じです。

また、当時の日本では銅の精製技術がまだ万全ではなく、銅の中に銀が交じることも少なくありませんでした。

明ではその技術があったため、銅と銀をより精密に分けて、それぞれの用途に使うことができたといいます。

ホントうまく噛み合ってますよね。

明銭は多くの私鋳銭が作られた(薩摩で作られた洪武通宝を絵で表したもの)/国立国会図書館蔵

 

生糸

生糸は明の主要産業であり、農民の副業でもあったことから生産量が非常に増えていました。

一方、当時の日本は、まだまだ養蚕業で質の良い糸を作れなかったため、やはり明製の生糸は重宝され、大量に輸入されています。

たぶん、この二つだけでも、相当な利益になっていたのでしょう。

衣服の需要が途絶えることはありませんしね。

また、貿易でもたらされた書画や工芸品は、日本文化に大きな影響を与えたといわれています。

遠い昔の奈良・平安時代

遣隋使と遣唐使が「日本文化は海外の文化を改良して発展していく」という構図ができたともいえましょう。

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現代でも、日本人は新しいものを一から作るより、よそで生まれたものを改良するほうが得意だといわれていますよね。

お家芸ならぬお国芸みたいなものなのかもしれません。

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【参考】
国史大辞典「勘合貿易」
日明貿易/wikipedia

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