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途中ですっぽ抜けたりするのはなぜ?
公家の場合は家の歴史が長いことに加え、有職故実、つまり遠い昔の前例をどのくらい知っているかによって家運が決まるので、朝廷の記録以外にその家ごとの記録をつけることも珍しくありません。
その最たるものが「日記の家」と呼ばれる、代々の当主が日記をつけていた家です。
明月記は「定家自身が出世に苦労したので、日記の家になって少しでも子孫をラクにしたい……と考えた」から書かれたといわれています。
日記が子孫の出世に関わる、というのは現代人にとってはなかなか想像しにくいですが、公家は公家でそういう苦労があったんですね。
逆にいうと、鎌倉時代の武士はそもそも
「前例を口実にして、自分たちの家が有利になるような方針をゴリ押しする」
という概念や必要性がなかったために、吾妻鏡ですら途中がすっぽ抜けてたり、隠蔽がある……ということにもなります。
編纂が始まった頃は、武士の中で文字の読み書きができる人がやっと多数派になったあたりでしょうし。
これまた乱暴な言い方をすれば、
「常用漢字をやっと一通り書けるようになった小学生が、頑張って地域の歴史をまとめた自由研究」
みたいな感じでしょうか。
ゆえに、もっと時代が下ると、武士の中にも先例を重んじる風潮が生まれてきます。
武士が政治の中枢にいた期間は、鎌倉時代から江戸時代。
その最初である鎌倉時代の武士は、人間で例えれば小中学生というところではないでしょうか。
吾妻鏡の特徴を長短併せて考えてみると、武士が為政者として少しずつステップアップしていった感がありますね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「吾妻鏡」
吾妻鏡/wikipedia