源義賢

源義賢公御廟所/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源氏は身内で殺し合う~頼朝の叔父・源義賢は甥の義平に討たれた

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源氏の身内争いリスト

頼朝を中心に振り返ると、どれだけの源氏武士たちが身内争いで討死したか?

以下はその死因です。

源義親←正確には源氏同士ではないが、西国で散々暴れ回って身内からも狙われ(悪対馬守と呼ばれるほどの強さ)、最終的に平正盛(清盛の祖父)に誅殺される

源義親
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源義賢←甥っ子に殺される ※今日ここ

源為義←息子の源義朝に敗死

源為朝←伝説的な強さの武人だったが、源義朝と敵対するほか、義親と同じく各地で散々暴れ回り、最終的に伊豆大島で自害する

源為朝
源平時代の最強武士・源為朝~身躯2m超の暴れん坊伝説が凄まじい

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源義朝←数多の身内争い・合戦を経て平清盛に敗死

 

源頼朝←死因不明(謎の落馬)

源義経←兄の頼朝に誅殺される

源範頼←兄の頼朝に誅殺される

木曽義仲←源義賢の息子で、頼朝が源範頼と源義経に命じて討たせる

木曽義高←義仲の息子で元々は頼朝の娘・大姫の許婚者だったが、父の死後、頼朝に討たれる

源頼家←母の実家に誅殺される

平賀朝雅←信濃源氏の出自であり、北条時政とその妻・牧の方に担がれ、源実朝を排除しようとして、北条政子北条義時らの命により討たれる

源実朝←甥っ子の公暁に殺される ※鎌倉源氏将軍の断絶

あらためて眺めてみると凄まじいですね。

そりゃあ、源氏将軍も途絶えてしまいますわな。

 

頼朝以前も頼朝以降も

源義親と源義朝はともかく、もはや源氏を名乗ること自体が死亡フラグなんじゃないかと思うレベル。

これが頼朝以降の傾向であれば清盛の呪いとも取れますが、残念なことにそのずっと前からです。

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鎌倉幕府自体も(実質北条政権ながら)、源氏一門の足利家・新田家に滅ぼされていますし、その足利家も応仁の乱以降は一族同士でアレコレやりあいますし。

不吉な一族――というより「強い者が勝つ!」という原理原則に従っているんですね。

なんでしたら関東に根を張っていた平氏だって、頼朝に味方し、平家滅亡を手掛けているのが、その証拠でしょう。

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確かに気性の荒い中世武士ではありますが、誰だって、利害の対立する遠くの親戚より、目の前の所領の方が大事ですよね。

よろしければ以下の関連記事にて各武将の詳細をご確認ください。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
源義賢/wikipedia

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