北条政子と言えば悪女――亡き夫・源頼朝に代わり権力を振りかざし、鎌倉幕府の御家人たちを動かした。
そんなイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
実際、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が始まってから、八重との確執シーンを取り上げたあるネットニュースでは「怖い女」とやたら強調されていました。
◆ 鎌倉殿の13人:“続・女の戦い” 八重を「あの女」呼ばわりした政子 「何をするか分かりませんから」 (→link)
果たして……それは正しい見方なのか。
歴史とは、過去のことであり、起きた出来事は確かに不変。
しかし、北条政子がどういう人物で、その生涯をどう捉えられるか?というのは見る人や時代によって大きく変わり、典型的な「悪女」像が広まった時もありました。
つまり彼女は、偉大で稀有な存在だからこそ、注目度も高く、時代が反映されやすいとも言えます。
1225年8月16日(嘉禄元年7月11日)は、そんな彼女の命日。
本稿では、鎌倉時代から平成まで、北条政子が日本人にとってどんな存在であったか――そんな歴史を辿ってみたいと思います。
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鎌倉:女人入眼の日本国
まずは鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』から、政子の訃報を見てみましょう。
どう描かれているか?というと
つまりは
「前漢・呂后のように天下を治め、神功皇后の再来である」
と評されています。
では呂后とは?
夫の寵姫を惨殺し、その過程において我が子・恵帝劉盈の精神状態を悪化させ、政治的混乱を招いたため、中国史でも屈指の悪女とされます。
『吾妻鏡』では、そうしたマイナス評価には触れず、政子の政治手腕を並べています。
神功皇后の再来というのも、もちろん褒め言葉です。
ただし『吾妻鏡』は鎌倉サイドの見解ですから、京都側からの目線も確認しておきましょう。
女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ。
「女人入眼」とはどういうことか。
入眼とは仏像を作ったとき、最後の仕上げとして開眼すること。ものごとの締めくくり意味する言葉です。
つまり日本という国家は
「女性が総仕上げをするものである」
と慈円は納得していた。
慈円は『愚管抄』でこの言葉をしばしば使い、理論として出産の重要性と苦痛を書き記しています。
長いこと胎内に子を宿し、陣痛の苦しみを超えて母は子を産む。
原始的な母性礼賛のようですが、それでは独身女性はどうなのかという疑念は湧いてきます。
慈円が藤原摂関家の出自であることや、当時の政治情勢も含めて考えてみましょう。
彼の理論は【垂簾聴政】(すいれんちょうせい)を肯定し、擁護しているとも言えます。
君主が幼いうちは、御簾を垂らした内側で母后が情勢を聞き、政治的判断を下す――
そんな意味ですが、同時にそれは「外戚」、すなわち君主の母方の家系が力を持ち過ぎるという欠点も有しています。
政子がなぞらえた呂后とその一族は、悪しき外戚の筆頭に挙げられる存在。
つまり『吾妻鏡』での呂后にせよ、慈円の「女人入眼」にせよ、女性が政治を行うことだけでなく、外戚が政治を担う状況も肯定的に捉えていることになります。
室町戦国:日本国をば姫氏国といい
この時代に成立した『曽我物語』には、政子の「夢買い」の逸話が収録されています。
妹が夢の内容を政子に語ったところ、政子が「それは悪夢! お姉ちゃんが買い取ってあげる」と、吉凶を騙し取ったという逸話です。
政子が野心家であることを強調する創作だとされていて、この逸話からは、当時の人々が政子をどう受け止めていたのかが窺えます。
浮かんでくるのは「強欲・狡猾・聡明・幸運」という女性像。
大河ドラマで大きく取り上げられた女性といえば1994年『花の乱』日野富子がいます。
彼女もまた悪女とされながら、近年は「そうとも言えないのでは?」と再評価が進みつつあり、そんな富子のロールモデルは誰あろう政子です。
富子が我が子・足利義尚に政治の心得を説くべく、一条兼良に書かせた書物に『樵談治要(しょうだんちよう)』があり、そこにはこう記されています。
此日本国をば姫氏国といひ、また倭王国と名付て、女のおさむべき国といへり。
「日本とは、女性が統治する国である」と始め、天照大神、神功皇后、推古天皇から皇極・持統・元明・元正・孝謙という五代の女帝を挙げている。
中国からは呂后、武則天、さらには北条政子も挙げ、その事績を例示しながら顕彰してゆくのです。
ご注目していただきたいのは中国の例も引いていること。
儒教は女性を低く評価しているため、政治参加もなかったとされますが、中国、朝鮮半島、日本において、女性が政治参加をした事例はあります。
どの文明圏だって男尊女卑の傾向はあります。
【応仁の乱】によって燃え上がった乱世は、女性が政治や合戦に参加する時代になりました。
2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』では、主人公・井伊直虎のみならず、今川家からは寿桂尼の功績も多く取り上げられました。
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江戸:おっかねえぜ“尼将軍”
江戸時代になると、それまでの女大名は姿を消します。
大名家が先祖の顕彰に励む中、悪事を女性に責任転嫁する傾向も強まりました。
例えば1987年大河ドラマ『独眼竜政宗』では、義姫が我が子・政宗を疎み、毒殺を企てる描写があります。
これは仙台藩が藩祖・伊達政宗を顕彰し、弟・小次郎殺害の悪印象を薄めるため、最上家に責任転嫁した創作です。
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大河でもおなじみである「淀の方と北政所の対立」といった話も、江戸時代以降の創作が元になっている。
そしてこの江戸時代前期には、平安中期から続いていた政子と縁が深い伝統行事が消え去ります。
それは何か?
後妻打ち(うわなりうち)――先妻が後妻や不倫相手を襲撃するというもので、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも注目されましたね。
先妻が武装した女性軍団を率い、後妻の家財道具を破壊するという凄まじい行事です。
当初は生々しい復讐だったのが、ストレス解消とけじめをつける行事として定着、これを行った人物で最も有名なのが【亀の前騒動】を引き起こした北条政子というわけですね。
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政子の場合は本気で襲撃をした事例で、それが徐々に儀式化され、そして消滅を迎えたのです。
江戸時代は印刷技術が発達し、教育が向上した時代でした。
武士の男性は昌平坂学問所を頂点にした藩校で儒教道徳を身につけ、それ以外の人々も寺子屋で教養を身につけました。
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この時代には女性には女性なりのカリキュラムも成立。
東洋においては女性ならではの教育書が普及しました。
中国の清代で『女誡』『女論語』『内訓』『女範』の4種のテキストが成立すると、和訳され日本でも定着したのです。
こうしたテキストでは「女性は控えめに、良妻賢母として生きるべき」と説いています。
北条政子が愛読したとされる『貞観政要』は、男性のものとされ、女性が読むことはなくなり、高等教育から遠ざけられ、家の中のことを守るべく育てられてゆきました。
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もっとも、そこからはみ出す女性もいたわけですが、江戸時代は女性が牙を抜かれてゆく時代でもあります。
そのような江戸期において、庶民に流布した創作物では、政子が格好のゴシップ種、ありえない女とされるようにり、頭の上がらない女房は「尼将軍」と呼ばれるようになっていく。
例えば『吾妻鏡』が頼朝の死をはっきり記載していないことから、想像たくましく、こんな妄想小咄まで存在したと言います。
ある日、頼朝が政子にこう尋ねました。
「なあ、御家人の中で誰が一番イケメンだと思う?」
「それはやっぱりなんといっても畠山重忠! 彼よりイケてる御家人はいないでしょ!」
これを聞いた頼朝は、政子が重忠を好きなのかと疑い、重忠に変装して政子の寝室に忍び込みました。
「この無礼者が!」
政子は激怒し、薙刀で頼朝を斬殺してしまいました。
これが源頼朝死の真相です。
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いくらなんでも無茶苦茶ですが、政子はこんな流れで「おっかねえ女」ネタにされました。
幕末を生きた渋沢栄一の女性観には、政子から遠ざかった「大和撫子」像が反映されていて興味深いものがあります。
『青天を衝け』に登場した渋沢はじめ、伊藤博文ら志士の女性像とジェンダー観は、当時特有の感覚がある。
大河を通して比較してみてもよいでしょう。
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明治:厳毅果断、丈夫の風あり
幕末動乱の最中、水戸藩は無惨な同士討ちを繰り返し、人材が枯渇しました。
そして、その思想にあった水戸学は、明治政府上層部に浸透。
水戸学のバイブルとも言える水戸光圀の『大日本史』では、政子がこう評されています。
政子、厳毅果断、丈夫の風あり。
一見、褒められているようでいて、「丈夫の風=男らしさ」がある例外的存在として扱われています。
明治前半期は、こうした『大日本史』に基づく政子像が教養として学ばれました。
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ところが、そんな政子の姿が段々と消えてゆきます。
政子は「北条時政の娘」であり、「源頼朝の妻」であり、「北条時政の姉」である。
こうした男性たちをつなぎ止める役割であり、源平合戦のヒーローの中へ埋没してしまうのです。
しかも【承久の乱】は語られない歴史となりました。
なぜなら明治政府には構造的な歪みがあったからです。
明治政府は、武士として天皇を崇めることで成立したとされています。
武士は、日本人は、天皇陛下の赤子である。ずっとそうしてきたはずだ。そう教えていた。
ところが【承久の乱】は武士が朝廷に勝利をおさめている。
ハッキリいえば都合が悪い――そんな事情から触れられなくなってしまうのです。
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