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【高倉天皇】
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我が子が壇ノ浦で入水する悲劇は知らずに……
即位から11年――しかも若くやる気に満ちた年頃の人が、ようやく実権を持てるようになったのですから、意気込んでアレコレやらかしてもおかしくはありません。
しかし、清盛の機嫌を損ねないためには、自分がいつまでも位にいないほうがいいということも、高倉天皇は気付いていたようです。
親政を初めてたった三ヶ月で、高倉天皇は我が子であり、清盛の孫でもある安徳天皇に譲位。
それから一年程度で亡くなってしまっているので、もしかすると病気を理由として退位したのかもしれません。
暗殺と見る向きもありますが、高倉天皇が亡くなった治承五年(1181年)には、清盛や藤原邦綱(平家とうまく付き合ってた公家)なども病死しています。
清盛の死因にマラリア説があるので、もしかしたら高倉天皇や邦綱も同じ病気が原因という可能性も否定できないですね。
マラリアは蚊を媒体として伝染する病気なので、高倉天皇や清盛が亡くなった春先というのもピンとこない話ではありますが……。
ただ、明治時代には北海道でもマラリアが流行り、開拓に支障をきたしたそうですから、平安時代の京都ならその時期でもありえたんですかね。
ゴールデンカムイ舞台 現実の北海道開拓は想像以上に過酷だった
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まぁ、高倉天皇が長生きしていたらいたで、我が子が壇ノ浦で入水する(させられる)という皇室屈指の悲劇を知ることになってしまいます。
子供にも孫にも先立たれた後白河天皇について……あまり同情する気にならないのはナゼでしょうかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部 『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
高倉天皇/Wikipedia