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【一ノ谷の戦い】
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源平の興亡は実質的に決まった!?
また、平家物語で五本の指に入る超有名なエピソード「敦盛の最期」も実は一ノ谷での話です。
中学生くらいで習うのでここでは割愛しますが、逆落としに隠れて歴史の授業ではほとんど取り扱われず、国語だけというのはちょっと寂しいというかビミョーな気になりますね。
こういうところで教科を越えてリンクさせると面白いんじゃないかと思うのです。
特に平安~鎌倉あたりって文学と歴史の関連が深い気がするんですよね。
『方丈記』とか世相(に対する愚痴)のことがほとんどです。
『方丈記』は随筆というより災害ノンフィクション?枕草子や徒然草と比較してみよう
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話を一ノ谷に戻しましょう。
後は結果ですね。
多くの人材を失ってしまった平家
結果としては当然ながら「勝った源氏・負けた平家」という構図になります。
しかし、戦いというのは最初から勝敗が決まっているワケじゃありません。
もともと戦の準備は整っており、平家だって勝つため死に物狂いで戦いました。
そのぶん犠牲も大きく、特に一族の中の若い世代がたくさん討死してしまいます。
平清盛の異母弟や息子の家の子供や清盛の養子など、次代の中枢になるべき人材の多くが一ノ谷で失われたのでした。
平敦盛が笛の名手であったことは有名ですが、他にも和歌や琵琶に秀でていた人もいたとか。
その辺はさすが名門ですね。
敦盛を討ち取った坂東武士・熊谷直実~鎌倉での政争や粛清に疲れ果て法然の元へ
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もしこの後で平家が盛り返しても、いずれ人材不足、後継者不足に悩んだと思われます。
ゆえに実質的には一ノ谷で源平の興亡は決まっていたとも言えそうです。
源氏は源氏ですぐに仲間割れをしますので、未来は不確定とも考えられますが……。
ともかく大打撃を受けた平家はさらに西へ逃げ、勢いに乗る源氏はそれを追い……次のハイライト【屋島の戦い】へと続きます。
那須与一の出番となりますが、その詳細は以下の記事にて。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon)
上横手雅敬『源平争乱と平家物語 (角川選書 (322))』(→amazon)
『源平興亡三百年 (SB新書)』(→amazon)
一ノ谷の戦い/Wikipedia