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【伊東祐親】
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「過去の罪を恥じる」として自害
父に反した行動をとった伊東祐清。
実は彼の妻は、頼朝の乳母である比企尼の娘でした。
ドラマでは比企尼を草笛光子さんが演じていましたね。
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その比企尼の意向で、関東の有力武家である比企氏が頼朝を支援していたため、娘婿である祐清も従ったのです。
頼朝はいったん伊豆山神社(熱海市)に逃れ、その後、北条時政の屋敷に匿われたため、伊東祐親もそれ以上は深追いしていません。
ここで時政と事を構えてしまうと、それこそ平家に睨まれかねません。
なお、八重姫は息子を殺された上、頼朝が北条政子とねんごろになっている場面を直に見てしまい、あまりの衝撃で入水してしまったといわれています。
前述の通り『鎌倉殿の13人』における八重姫は、生きて北条泰時を生んだ設定ですが、実は彼女の最期や、泰時の母は今なお不明なため、フィクションで描くには問題のない話とも言えます。
泰時の母が「八重の可能性がないわけじゃない」という研究者もいます。
いずれにせよ娘・八重の死に対する祐親の言動は伝わっていません。全ては家を守るためだったとはいえ、入水していたら辛すぎますね……。
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石橋山の戦い
それからしばらく、祐親の動向は途絶え、次に登場するのが治承四年(1180年)8月。
頼朝が挙兵し、石橋山の戦いに挑んだとき、敵方として登場します。
祐親にとっては様々な遺恨を晴らす場面だったでしょう。
しかし、直接対決ともならず、敗れた頼朝や源氏方の中心武士たちも逃げたため、祐親としてはスッキリしない展開に終わります。
そして祐親と頼朝は、同年10月【富士川の戦い】で、再び敵同士として相対しました。
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詳細は上記の記事にありますように、武田信義らの活躍で頼朝方が快勝。
敗れた祐親は駿河方面へ逃げようとして捕縛され、娘婿のひとりだった三浦義澄に預けられています。
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そして驚きの展開を迎えます。
政子が懐妊中だったことや、義澄の助命嘆願などもあって、一時は祐親の罪は許されたのです。しかし……。
「過去の罪を恥じる」
そう言って、本人の意思で自害してしまったのです。
養和2年(1182年)2月15日のこと。命より誇りを重んじる、武士らしい最期といえるかもしれません。
しかし不幸はそこで終わりませんでした。
息子の祐清も父に従い
この敗戦後、かつて頼朝に危機を知らせて命を助けた伊東祐清も捕えられていました。
頼朝にとっては命の恩人ですから、それに免じて許し、恩賞を与えようとまでしたそうです。
ところが、です。
伊東祐清もまた
「父が罪人扱いされているのに、自分が厚遇されるわけにはいかない」
と言い、自害へ……となりそうですが、その後の展開が定まっていません。
・祐親の自害後に自ら誅殺されることを望み、頼朝がその通りにした
・改めて平家方につくべく上洛し、その後、北陸で討ち死にした
以上、2つの説があり、どちらにしてもハッピーエンドでは終わらないんですね。
伊東祐親とその娘・八重姫(とその子供)、そして伊東祐清。
涙無しには語れない一族と申しましょうか。
願わくば八重が北条泰時を生んでいて、その結果、御成敗式目で武士の世を平和な方向へ誘っていてくれたら少しばかり報われる気もしますが……。
ともかく、悲劇の最期を迎えた彼等の魂を慰撫するためか、地元では毎年「伊東祐親まつり」が執り行われ、親しまれています。
ご興味のある方は、以下関連リンクをご参照ください。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
ほか