各幕府で後世にまで名が轟いているのは、やはり政治的・外交的な足跡をきっちり残された方でしょう。
逆に言えば、そうした功績がなければほとんど名前は登場しません。
その極めつけが、室町幕府五代将軍・足利義量(よしかず)ではないでしょうか?
他にもマイナーな将軍は多々おりますし、七代将軍・足利義勝などは9才で亡くなるという悲運の将軍でしたが、義量もまた19才の若さで死亡。
しかもその理由が「お酒」と考えられてます。
応永32年(1425年)2月27日が命日ですが、一体、彼に何があったのでしょうか。
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父・母・息子でよく外出していたとか
五代将軍・足利義量の父親は、四代将軍・足利義持です。
有名な三代将軍・足利義満から見ると、義量は孫にあたりますね。
義持は、その父・義満が大嫌いでしたが、自分の息子・義量のことは割と好きだったようです。
というのも、義持には育ち上がった息子が義量しかいなかったからです。
跡継ぎがいなくなるとあらゆる意味で困りますし、義量は小さい頃から病弱な質だったため、余計に可愛く感じられたのかもしれません。
また、義持は寺社への参詣をはじめとした外出の際、義量を同行させるようにしていました。
息子への愛情ももちろんあったでしょうし、幼いうちから将軍としての立ち居振る舞いを示そうと考えたのでしょうか。
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さらにいうと義持は、妻の日野栄子との関係も良かったといわれています。
栄子は猿楽や能を好んでおり、見物することもよくあったとか。
だからこそ義持・栄子・義量の将軍一家で出かけることも多かったのでしょうね。
義量が将軍職を継いだのは応永三十年(1423年)のことで、その前後にも三人でよく外出していたそうです。
武家で親子団欒というのも珍しいというか、歴史上で「親子」とか「兄弟」という単語が出てくると、だいたいその後に「◯◯を巡って争いました」と続くので、極めて稀な例かと。
武士は戦うのがお仕事ですけれども、身内でまでやらなくたっていいですよねぇ。
側近たちに酒を控えるよう伝えるほど
将軍を引き継いだとき、義量は16歳、父の義持は37歳でした。
跡を継がせるにはまだ早いタイミングです。
が、これはおそらく義持が義量を後見するためと思われます。
大嫌いな父・義満と同じヤリ方なのはしゃあないですね。息子の病弱さなども考慮したのかもしれません。
それを示している……かもしれないエピソードとして、こんなものがあります。
義量は若い頃からかなりの大酒飲みで、義持は度々苦言を呈していました。
そして将軍位の継承があった頃、義持から義量の近臣に「義量の酒量ヤバすぎ。お前ら節酒させろよな」(意訳)と命じていたそうなのです。
上記の通り、このとき義量は16歳。
元服後ですので、当時の社会的には成人ですけれども、現代科学で考えるとまだ体ができあがっていないくらいの年齢です。
女性であれば前田利家の妻・まつのように「10代のうちからガンガン子供産んでました」なんてこともありますが、男性の第二次性徴は女性よりも遅くなるのが常ですしね。
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当時の食事にはお酒がつきもの、かつ現代よりもずっと薄いお酒だったとはいえ、16歳の少年が親に止められるほどというのは相当な酒量だったのでしょう。
これが「将軍になったのに実権を握らせてもらえず、鬱屈していた」とかならまだわかるのですが(よくはないけど)。
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