若くして命を落としてしまうと後継者選びで揉め。
かといって長生きし過ぎても権力が二分化してこれまた争いの種になったりします。
では、室町幕府の七代将軍・足利義勝は?
ほとんど注目されることがないですが、実に9才(数え)で将軍となり、そしてその翌年の嘉吉3年(1443年)7月21日には任期8ヶ月で亡くなってしまうという、悲運の将軍であります。
一体どんな人物だったのか。
短すぎるその生涯を追ってみましょう。
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父の義教が妻の実家を嫌っていたから?
義勝は六代将軍・足利義教の長子。
生後間もなく政所執事、つまり有力家臣である伊勢貞国の屋敷に移され、そこで育ちました。
義勝と、更には八代将軍・足利義政の母でもある日野重子は藤原北家日野流という名門ですから、母方に預けるのが自然なはずなのですが……。
足利義教が重子の兄・日野義資(よしすけ)を嫌っていたので、近づけたくなかったんですかね。
現代風に言うと「嫁本人はいいけど、嫁の実家は気に入らないから大事な息子を任せられん!」みたいな。
※以下は足利義教の生涯をまとめた記事となります
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余談ですが、藤原氏はどの系統も非常に支流が多い一族です。
藤原北家だからといって、日野氏が藤原道長の子孫というわけではありません。同じ藤原氏でも、もっと前に枝分かれしています。
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有名どころでは、浄土真宗の祖・親鸞が日野氏の血を引いていますね。
さらに親鸞の末娘・覚信尼が日野広綱という人に嫁いだため、日野氏は本願寺との関係が深い家でもあります。
こういう繋がりが見えてくると、歴史って面白くなってくるんですよね。ややこしくもなりますけれど。
この頃の本願寺は決して大きな勢力ではありませんでしたが、義教は自分も僧侶(元は延暦寺で天台座主)だっただけに、息子が宗教からの悪影響を受けないようにした……というのも考えられそうです。
まあ、この辺はあくまで私見ですので、サラッと流して次に行きましょう。
細川と伊勢に助けられ9才で将軍
そんなこんなで、家臣の家で育つことになった足利義勝。
預かり先の伊勢貞国については大きな功績が知られておらず、記録もさほど残っていません。
しかし、彼の兄・貞経が義教によって政所執事の座を追われていますので、少なくとも「貞国のほうが信用できる」とは思われていたでしょう。
こうして平穏に過ごしていたであろう日々が突如として終わり、重責を負うことになったのは、父・義教が【嘉吉の乱】によって、赤松満祐に殺されてしまったからでした。
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数えわずか9歳にして将軍に……。
それでも嫡流の男子には変わりないため、家督と将軍の座を継ぐまでに、さして異論は上がらなかったようです。こういうときは一致団結できるんだなぁ(ボソッ)。
むろん、この年齢では義勝が実務を行うのは不可能です。
管領・細川持之と伊勢貞国らが政務を行い、そのかたわらで義教の仇を討つため、赤松氏の領地である播磨へ討伐軍が差し向けられました。
討伐軍の中核にいたのが、後に【応仁の乱】でイヤというほど名前を見る山名宗全(持豊)です。
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宗全と敵対した細川勝元は、このときまだ家督を継ぐ前なので関係していなかったと思われます。
実は宗全と勝元って、親子くらいの年の差がありますからね。そして……。
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