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【足利義勝】
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死因は赤痢が有力です
他には、義勝の生母である日野重子や、畠山持国などが権力を握りました。
義勝自身がやったこととしては、嘉吉三年(1443年)6月、弔問にやってきた朝鮮通信使との会見くらいでしょうか。
これも記録が乏しく、義勝が何を言ったかどうかはわからないのですが……。
そのまま義勝の健康が保たれていれば、もっと個性がわかるような逸話も残ったのでしょう。
しかし現実には、通信使との会見から一月程度。
10才の若さで義勝は亡くなってしまいます。
当時はピリピリしていたの? 朝鮮通信使は室町~江戸時代まで続いた
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死因はハッキリしておりません。
落馬や暗殺などの説も囁かれており、その中で最有力視されているのが赤痢による病死です。
赤痢菌は汚染された飲食物や患者の排泄物が主な感染経路ですから、この時期の室町幕府で集団感染していなさそうなのは気になりますけど。
まぁ、子供ですから体力的に厳しいものもあったでしょう。
こうして、室町幕府の将軍は、父の六代・足利義教(赤松に暗殺される)に続き、七代・義勝と、二代続けて不本意な形で代替わりせざるを得なくなります。
それゆえでしょうかね。
次の八代将軍・足利義政で応仁の乱が起きてしまうのは。銀閣(慈照寺銀閣)で有名な足利義政です。
彼もまた、将軍就任時は少年でした。
なかなか個性的な兄弟たち
最後に、義勝の兄弟を簡単に見ておきましょう。
それぞれに深く関わる事件などがあるので、詳しくはまた改めますが、名前だけでも覚えておくと理解しやすさが変わってくると思います。
義勝らの父である義教は側室を数多く抱え、子女もたくさんいました。
しかし、夭折したり記録がない人がほとんどで、足跡がはっきりしているのは義勝の他には以下の三人のみです。
足利政知
初代堀越公方となった人です。
政知のほうが年上ですが「義政の弟」と表記されることがあります。
これは、政知の母が義勝・義政の母より身分が低かったからです。
当時よくあったことで、有名どころだと織田信雄と信孝もそうだといわれていますね。
そういう生い立ちなので、政知は幼少期からお寺に入って僧侶としての道を歩んでいました。
義勝が亡くなり、義政が将軍になってから「鎌倉公方やってよ」(意訳)と命じられて還俗しています。
本当は鎌倉公方になる予定で下向したのですが、【永享の乱】や【享徳の乱】など、関東での戦が相次いだため鎌倉に入れず、堀越(現・静岡県伊豆の国市)に留まることになりました。とんだ貧乏くじです。
11代以降の将軍は全員彼の子孫なので、最終的な勝者ともいえます。
永享の乱で関東に火種を大量投下~そして鎌倉公方・足利持氏は切腹へ
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28年間もドンパチ続いた享徳の乱~足利vs上杉で関東は戦国時代へ
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足利義政
前述の通り、八代将軍です。
最初は真面目に将軍をやっていましたが、あんまりにも何もかもがうまく行かなくてグレてしまい、趣味に没頭するようになった結果が【応仁の乱】に繋がります。
彼についての詳細は以下の記事へ。
室町幕府の崩壊は八代将軍足利義政から始まった?56年の生涯まとめ
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足利義視
応仁の乱初期における東軍の旗頭です。
経過があまりにもややこしいために忘れられがちですが、応仁の乱という範囲では勝者といえないこともありません。
★
こうしてみると、義教の息子たちは全員が損な役回りをしていますね。
「親の因果が子に報い」というと、義教が少し可哀相な気もしますが、いやはや。
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長月 七紀・記
【TOP画像】
足利義勝坐像photo by 宇治主水 wikipediaより引用
【参考】
国史大辞典「足利義勝」
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon)
足利義勝/wikipedia