後白河法皇

後白河法皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

後白河法皇はどこまで老獪な政治家か?頼朝に「日本一の大天狗」と称された生涯

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治承三年の政変

治承3年(1179年)閏7月29日、平重盛が亡くなりました。

『鎌倉殿の13人』で小泉孝太郎さん演じる平宗盛が「兄が生きていたら違っていた(平家は滅亡しなかった)」と言っていた、その兄です。

言わずもがな平家にとっては大きな痛手。

その一ヶ月ほど前に彼らの妹でもある平盛子も亡くなっていたのですが、そこで後白河法皇が平家との関係をぶっ壊すような策を強行します。

重盛と盛子の遺領を強引に配分してしまったのです。

当然ながら、二人の父である平清盛は激怒します。

【治承三年の政変】と呼ばれる事件を起こし、法皇の院政を停止させたのです。

このクーデターは高倉天皇の詔書を得てのものだったので、後白河法皇も対抗する術がありません。

鳥羽殿に押し込められ、病気で弱り、診察にやってきた典薬頭(てんやくのかみ)・和気定成に「もう一度、熊野詣に行きたい」と涙ながらに訴えていたと言います。

「ごく一部の人間しか法皇に近づけない」状況に追い込まれてもいたので、精神的に参っていたのでしょう。

法皇としても、清盛の怒りを解きたいのか。

その後、高倉上皇の初めての参詣を巡って延暦寺などが反発したとき、後白河院が大衆の動きを聞きつけると、平家に知らせて清盛の態度を軟化させています。

なんだか涙ぐましい努力という感じですが……ここで再び後白河法皇に追い風が吹き始めます。

治承4年(1180年)5月に【以仁王の挙兵】が起きたのです。

これにて反平家の流れが生まれました。

以仁王の動きはすぐに鎮圧されたものの、反平家の機運は興福寺などにも飛び火しており、平家による京都維持は難しくなっていきました。

そこで清盛は福原への遷都を強行し、後白河法皇も同行させ、情勢は安定……しませんでした。

治承4年(1180年)8月、今度は東国で源頼朝が挙兵したのです。

 


頼朝の挙兵と清盛の死

源頼朝の挙兵以降は、まさに『鎌倉殿の13人』で描かれていますね。

ドラマと重なる部分と、その先のネタバレになりそうな表記もありますが、進めて参りましょう。

当初、頼朝が挙兵したとき、平家は、相模の有力者である大庭景親などに命じ、この乱を治めさせようと考えました。

実際に【石橋山の戦い】で頼朝は散々に敗れ、房総への逃亡を余儀なくされています。

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しかし、頼朝は逃亡先で上総広常千葉常胤らの助力を得ることに成功。

鎌倉入りを果たし、さらに軍を西へ進めます。

一方、平家は、頼朝らを討つため、平維盛を中心とした討伐軍を派兵させると、両軍は駿河国で激突することとなりました。

富士川の戦い】ですね。

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この戦いで大ポカをやらかした維盛は、ドラマでも笑い者にされていましたが、法皇にしてみれば笑いが止まらなかったでしょう。

もともと周囲からの反発が強かった福原遷都ですから、清盛も今回ばかりは京都へ戻らざるを得なくなります。

しかも年が明けた治承5年(1180年)1月、高倉上皇が崩御しました。

幼い安徳天皇を後見するため、清盛は牽制しつつも後白河法皇の院政復帰を認めることになります。

以仁王の挙兵から、ここまでわずか数ヶ月。

これまで築き上げてきた平家の栄光が瞬く間に崩れていく――そんな様子を見て、いくらタフな清盛だって、さすがに心身ともに疲弊したことでしょう。

そして治承5年(1181年)閏2月4日。

平家にとっては最大の転機となる不幸、稀代の政治家・平清盛が熱病で亡くなりました。

 


義仲の入京

邪魔な清盛が居なくなり、これでワシの時代がやってきた――。

後白河法皇にしてみれば拍手喝采、小躍りしながら今様を楽しみたくなったかもしれませんが、事はそう単純でもありません。

清盛の息子で平家を継いだ平宗盛は、院に恭順する姿勢を見せながら、軍事権は手放さず、頼朝からの和平案も突っぱねたのです。

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後白河法皇にしてみれば、目の前にいる平家に協力するしかない状況。

しかし今度は、北陸へ向かった平家軍が【倶利伽羅峠の戦い】で木曽義仲に惨敗します。

事ここに至り

「宗盛が都落ちを計画している」

という噂を聞いた後白河法皇は、源資時・平知康だけを連れて法住寺殿を脱出し、比叡山に逃げ込みました。

また拉致されてはたまらない、とでも考えたのかもしれません。

すると、都から落ちていった平家と入れ替わり、木曽義仲と源行家が入京しました。

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院は二人に平家追討の宣旨を与え、官軍と賊軍が入れ替わります。

後白河法皇はさらに、安徳天皇を連れ去ったことを理由に、平家一門200名以上を一気に解官。

そこに次々と院の近臣を送りこみ、あっという間に政治上の立場をひっくり返しました。

さらには安徳天皇を事実上の廃位とするため、高倉上皇の皇子から次の天皇を擁立しようとします。

政治信条など感じられない法皇ですが、時勢を見る目、政治力は凄まじいですね。

ここぞいうところで一気呵成です。

ただし、武力を持たないことは弱点であり、義仲から「以仁王の子息・北陸宮の即位」を主張されると、強く反対することもできません。

他に頼れる武士がいない。

とはいえ義仲の主張を鵜呑みにすることもできません。

新帝に、高倉上皇の第四皇子・後鳥羽天皇を立てると、それを知った義仲は無理やり兵糧を徴発するなどして、京都の治安を悪化させます。

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