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【後白河法皇】
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法住寺合戦
清盛が居なくなっても、今度は源氏に振り回される法皇。
京都での義仲の振る舞いに怒り心頭となっていましたが、武力で抵抗できない以上、何か策を建てねばなりません。
そこで義仲には、平家討伐のため西へ向かうよう厳命します。
そんな法皇のもとに、頼朝から「平家が横領していた土地の返還」などを申し出る書状が届きます。
まさに渡りに船と言ったところでしょう。
頼朝の対応に喜んだ法皇は、寿永二年十月の宣旨で東海道・東山道の支配権を認めました。
後白河法皇としては、義仲にも北陸道や上野・信濃の支配権を認めたかったようですが、頼朝に反対されました。
当然ながら、その決断を知った義仲は激怒します。
京都へ戻ると、頼朝に宣旨を下したことに猛反発。返す刀で頼朝追討の宣旨を求めましたが、後白河法皇は拒絶します。
義経が不破の関まで来ていたので強気になり、この機会に義仲を排除しようと考えたのでしょう。
法住寺殿の警備を固め、義仲に対しては
「直ちに西へ向かえ」
「どうしても頼朝と戦うというのなら好きにしろ。ただし院宣は出さない」
「京都にとどまるのなら謀反とみなす」
と告げます。
いくら義仲が「謀反するつもりはない」と主張しても、聞く耳持たず。
追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃し、後白河法皇を押し込めて頼朝追討の院宣をもぎ取るという荒業を繰り出します。
いわゆる【法住寺合戦】ですね。
法住寺合戦で前代未聞の法皇幽閉! 義仲は大天狗に勝利して信用を失った
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しかし、そんな強引な戦略が続くはずもなく……寿永三年(1184年)の年明け早々、木曽義仲は、源範頼・源義経の軍勢に敗れて討ち死にしました。
法皇はその後、わずかの時期ながら源義経を重用します。
いったん整理しますと、
平清盛
↓
平宗盛
↓
木曽義仲
↓
源義経
と、次々に勢いのある武士と結びついては、彼らが破滅に追い込まれていく。
「日本一の大天狗」と指摘したのも頷けますよね。
頼朝は大いに警戒していたのでしょう。
屋島・壇ノ浦
木曽義仲を打ち破った源範頼・義経軍は、その後、一ノ谷の戦いで平家軍に完勝。
そのまま壇ノ浦の戦いへ……と思うところですが、一旦止まらざるを得なくなります。
兵糧徴収などで京都市民が疲弊しきっており、強引に戦を続ければ義仲の二の舞となりそうだったからです。
むろん京都を無防備にはできません。
そこで源氏軍の大多数をいったん鎌倉へ戻し、頼朝の代官として義経を京都に残すことになりました。
それから半年近く経った頃、いよいよ西国へ出陣しよう!というところで、今度は平家の残党によって【三日平氏の乱】が発生します。
これに対応するため、京都を動けなくなった義経の代わりに、範頼が西へ向かうも、やはり兵糧の手配などで苦慮し、思うようにはいきません。
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「私が四国へ参ります」
範頼が西国で苦境に陥っていることを知った義経は、後白河法皇に奏上しました。
法皇としては京が手薄になることを警戒していたらしく、これを許したり止めたりしており、混乱ぶりがうかがえます。
それでも法皇の逡巡を振り切って京を出発した義経。
その後の活躍は凄まじいものでした。
ドラマでも梶原景時が「八幡神だ……」と唖然としていたように、【屋島の戦い】に続き【壇ノ浦の戦い】で勝利を収め、あっという間に平家を滅ぼしてしまうのです。
結果オーライというところなのでしょう。強引に飛び出した義経を院も咎めなかったようです。
安徳天皇と草薙剣は海に消えてしまいましたが、神器のうち鏡と勾玉が戻ったことが大きかったのかもしれません。
「日本国第一の大天狗」
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経。
鎌倉にいてその一報を得た頼朝。
やがて両者は対立するようになり、後白河法皇は板挟みに近い状況になります。
頼朝追討の宣旨を発給すると、当然のごとく頼朝に咎められ、
「行家と義経の謀叛は、天魔のしわざ」
という言い訳をしています。むろん、そんなまやかしが通じるわけもなく、そこで
「日本国第一の大天狗」
と言われました。
「大天狗」は別の人を表しているという説もありますが、このときは頼朝の代理で北条時政が上洛しており、義経の追討にあたり【守護・地頭】の設置なども要請されました。
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守護地頭の設置というと、なにやら法皇からもぎとったような印象もあるかもしれません。
しかし、頼朝としても特に強引に押し迫ったワケではありません。
京都育ちだけあってか、朝廷とは穏便にことを進めるよう努力しているようです。
実際、紆余曲折を経て、鎌倉政権と朝廷の関係は改善していきます。
なお、義経については文治四年(1188年)2月、頼朝から法皇のもとへ「義経が奥州にいた」という一報が届けられ、その後は、よく知られている通り。
藤原泰衡に攻め込まれて、自害へ追い込まれました(衣川の戦い)。
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頼朝と8回もの会合
建久元年(1190年)11月、頼朝が上洛。
後白河法皇は初めて顔を合わすことになりました。
平家を滅ぼした源氏の棟梁が京都入りすることは京雀の間でも大いに話題になったのでしょう。
京都の市民が見物に繰り出す中、法皇も密かに車を出して見物したといいます。
珍し物好きな性分がこの方最大の特徴かもしれませんね。
そして頼朝と初の対面。京都滞在中、頼朝は8回も法皇のもとを訪れ、深く話し合いを重ねました。
むろん、政治上の関わりですから、仲良しトークなどではありません。
頼朝に対して後白河法皇は諸国守護権を認めたものの、征夷大将軍の職は与えませんでした。
そして年が明けた建久二年(1191年)、後白河法皇は体調を崩してしまいました。
一度は快方に向かったものの再発し、大赦や崇徳上皇・安徳天皇の供養などが行われたものの、病状は悪化の一途を辿っていきます。
なぜ崇徳上皇や安徳天皇の供養などが行われたのか?
というと、当時は非常に「怨霊」が恐れられた時代であり、本気でお祓いをしたのです。
まだ6才で亡くなった安徳天皇については、世間では頼朝の責任とされ、そのせいで義経との対立が避けられなくなったという見方もできるかもしれません。
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後白河法皇も、そのことを気に病んでいたのでしょう。
建久3年(1192年)2月18日には、後鳥羽天皇が雨の降る中で法皇を見舞ったそうです。
法皇はこれに喜び、後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌ったとか。
おいおい、元気じゃん!とツッコむのは野暮ですかね……。
いずれにせよ孫が足元の悪い中で訊ねてきてくれて、一気に元気が出たのでしょうか。法皇は遺産の分配に関する意志を伝えます。
法住寺殿などは後鳥羽天皇に、他の領地は自分の皇女たちにそれぞれ分配する、というもの。
末娘である覲子内親王(宣陽門院)には特に配慮してくれるように頼んでいます。
これで安心したのか、3月13日に崩御しました。
宝算66。
日本史上、この方ほど「老獪」という言葉が相応しい政治家もいない気がします。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人物事典』(→amazon)
他