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【坂東武士の鑑】
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質実剛健で質素を好む
色好みは、何も恋愛感情に限りません。
花鳥風月に魅力を見出す心にもつながり、物欲へ発展すると贅沢から身を崩して厄介。
坂東武士は質実剛健を掲げ、消費行動を抑制する傾向はありました。
しかし世がうつろえば、そうとも言ってはいられません。
鎌倉の浜辺では青磁を見つけることができます。
畠山重忠より下の世代が、ブランド品を買い漁った名残が現在まで残されているのです。
これが、もっと時代がくだった戦国時代になると、どれだけ素晴らしい衣装を身につけ、茶道具を持つか、美的センスと財力も競われるようにもなりました。
坂東武士には、そうなる以前の、プロトタイプな武士の姿を見出すことができます。
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武勇を悪事に用いない
武士は暴力を振るう職業といえます。
殺人も辞さない。
それが世の習いであり、彼等の行為を正当化するためには
・善悪をきっちりと判断する
という前提が必要になってきます。
遊び半分で誰かを殴るとか。宝物欲しさに寺を襲撃するとか。本来なら許されません。
しかし、実質的に取り締まる術はなく、ゆえに武士が強盗殺人をすることもありました。
『源氏物語』の世界では、そこまで盗賊がウロウロしている印象は受けませんよね?
だから、あの平安世界はおかしい……のでは、ありません。
『源氏物語』は、検非違使が取り締まっていた洛中だからこその安全な世界であり、上流階級ならではのことでした。
同時代の話でも『今昔物語集』ともなれば、盗賊の話が一ジャンルとして成立しています。
当時の貴族は京都から出ることを極端に恐れていました。
彼らからすれば治安が悪い地方に行くことは、あまりに危険で恐ろしいものであったのです。
そうした地方にいる武装集団には、武士が含まれます。
武士がひとたび暴力に囚われたら、山でも海でも市街でも、人を襲撃してしまう。
畠山重忠のように、堕落を避けたい高潔な人物は、そうした暴力に溺れないようにするため、自らを固く律する必要があった。
現代人からすれば当然としか言いようがないことも、中世ではそうではなかったのです。
だからこそ
「あの人マジで凄いわ! 相手が舐め腐った態度でも、そいつを殺したりしねえんだぜ!」
なんてウソみたい状態みたいな状況があっても不思議ではありません。
北条義時の三男・北条重時は、嫡男・長時のため家法「六波羅殿御家訓」を記しました。
そこにこうあります。
時トシテ何ニ腹立事アリトモ、人ヲ殺害スベカラズ。
どんなにむしゃくしゃしても、カッとなって人を殺してはいけません。
こんな恐ろしいことを、わざわざ注意されるということは、普段は平気で殺していたということでしょう。
逆に「鑑」とされる重忠は、たとえどれだけムシャクシャしても、殺人などしなかったでしょう。
坂東の人命を尊重する
『鎌倉殿の13人』における重忠の特徴として、兵力の損耗を避けようとする傾向があります。
重忠は臆病ではない。
しかし、坂東武士の流血は極力避けたいことが言動の端々からわかります。
重忠と対照的な和田義盛はそこをまるで考えずに突撃してゆくため、対比がわかりやすく表現されています。
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勝つためならば騙し討ちや謀殺も上等!という源義経とも対照的です。
この姿には坂東武士らしさが集約されているといえます。
中世の武士は暴力的であり、血に慣れています。血腥い事件の類が多いため、それが日常かと思えばそう単純でもありません。
生々しい誰かの死に心が折れ、出家してしまった武士も多い。
武士として生まれたからには戦わねばならないけれども、できることならば無駄な殺生は避けたい。
そもそも坂東に住む民が減ってしまうと、守りたい土地だって衰退してしまいます。
源氏や平氏なんてどうでもよい。
我々が生きてゆく土地を守ることが大事ではなかろうか?
そんな重忠のような武士が言えば皆が納得する。それが坂東武士でした。
土地よりも誇りや忠誠心を守るようになる武士道は、もっと後の時代に成立します。
眉目秀麗 身体頑健
見た目と武勇は大事です。
だって武士だもの。
武士の知性や教養が評価されるのはまだ先の話で、人に対する判断基準が確立していないために、自然と「身体や声」に注目が集まってしまいます。
当時は「ルッキズム」を悪とみなすことはありません。
むしろ天からの恵みであると肯定的に見られました。
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美しい顔。身体。
そうしたものの持ち主は、天から愛され、神に近いのではないか?
中世はそう信じられていました。
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