吾妻鏡

吾妻鏡(江戸時代の写本)/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』が 北条に甘~く 源氏に厳しい! のはなぜか?

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「幕府の記録」だが公家の日記等も参考に

吾妻鏡の記述のうち、鎌倉周辺で起きたことは、直接記録したと思われます。

しかし、それ以外の地域で起きたこと、例えば朝廷の支配圏である近畿や、それより西の地域については、あまり書かれていません。

そうした事情に伴い、御家人でない武士のことや、公家に関する記述もごくわずかです。

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吾妻鏡はあくまで「幕府の記録」であって、「鎌倉時代の日本の記録」ではない……というわけです。

参考資料としては、公家の日記や寺社の記録、歴史物語も使われました。

例えば、

九条兼実の日記である『玉葉』

・藤原定家の日記『明月記』

・延暦寺の記録『天台座主記』

・『平家物語』とその異本とされる『源平盛衰記』

などです。

これらについては全てが引用されたわけではなく、幕府と関わりの深いところだけが使われたと考えられています。

一つ例を挙げますと、藤原定家の『明月記』について。

本日記には、三代将軍・源実朝が藤原定家の歌の弟子だったことから使われたとされているのですが、この師弟関係があった頃の記述しか使われていません。

藤原定家/wikipediaより引用

定家が当時屈指の歌人であるためか、明月記には難解な文が多いので、吾妻鏡を編纂した武士が理解しにくかった可能性もありますね。

明月記は定家の自筆本が残っていて、文化遺産オンラインで一部を見ることができるのですが、結構クセが強い感のある字ですし。

もしくは、幕府側が手に入れた写本が粗雑なものだった……なんてこともあったのかもしれません。

「成績がいい人のノートを借りたら、意外と悪筆で読めなかった」みたいな?

歴史を後世から見ていると忘れがちですが、公家も武士も人間ですからね。

 

年月の記載ミスと隠蔽工作の形跡

吾妻鏡には大きく二つの欠点があります。

一つは、誤記と思しき年月の記載ミスがあることです。

歴史書としては致命的ですが、当時の武士はやっと文字の読み書きができる人が多数派になったような時期なので、素でやってる可能性もありますね。

二つめは、北条氏にとって都合の悪い点を隠蔽した形跡があるということです。

これも歴史書としてはかなりの欠点ですが、いかんせん他の記録が乏しいというか、まとまっていないので、吾妻鏡以外に基礎史料になりそうなものがない……というのが正直なところのようです。

吾妻鏡目次・北条家の面々が並ぶ/wikipediaより引用

元寇が終わってから鎌倉幕府滅亡までの経緯について、教科書では

「恩賞がなかったので幕府に激怒した御家人がブチ切れました」(超訳)

という感じにすっ飛ばされているのは、おそらくこのためだと思われます。

討幕に関わった武士個々人や、地域の歴史を調べていくと、多少わかるんですけども。

教科書の編纂にも膨大な時間がかかりますから、鎌倉時代の終盤にだけ手間を掛けているわけにもいかない事情がありそうです。

そんなわけで、吾妻鏡は「武士が自らの歴史を自らの手で記した、初めての長期記録」という点に意義があるということになるのです。

 

途中ですっぽ抜けたりするのはなぜ?

公家の場合は家の歴史が長いことに加え、有職故実、つまり遠い昔の前例をどのくらい知っているかによって家運が決まるので、朝廷の記録以外にその家ごとの記録をつけることも珍しくありません。

その最たるものが「日記の家」と呼ばれる、代々の当主が日記をつけていた家です。

明月記は「定家自身が出世に苦労したので、日記の家になって少しでも子孫をラクにしたい……と考えた」から書かれたといわれています。

日記が子孫の出世に関わる、というのは現代人にとってはなかなか想像しにくいですが、公家は公家でそういう苦労があったんですね。

逆にいうと、鎌倉時代の武士はそもそも

「前例を口実にして、自分たちの家が有利になるような方針をゴリ押しする」

という概念や必要性がなかったために、吾妻鏡ですら途中がすっぽ抜けてたり、隠蔽がある……ということにもなります。

編纂が始まった頃は、武士の中で文字の読み書きができる人がやっと多数派になったあたりでしょうし。

これまた乱暴な言い方をすれば、

「常用漢字をやっと一通り書けるようになった小学生が、頑張って地域の歴史をまとめた自由研究」

みたいな感じでしょうか。

ゆえに、もっと時代が下ると、武士の中にも先例を重んじる風潮が生まれてきます。

武士が政治の中枢にいた期間は、鎌倉時代から江戸時代

その最初である鎌倉時代の武士は、人間で例えれば小中学生というところではないでしょうか。

吾妻鏡の特徴を長短併せて考えてみると、武士が為政者として少しずつステップアップしていった感がありますね。

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【参考】
国史大辞典「吾妻鏡」
吾妻鏡/wikipedia

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