大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で草笛光子さんが演じた比企尼(ひきのあま)。
頼朝と対面したときの満面の笑みや、我が子のように接する包容力で、いかにも優しいおばあちゃんといった印象かもしれません。
果たして史実でもそうだったのでしょうか?
ドラマでご存知のように、殺伐とした鎌倉の権力争いのド真ん中にいて、彼女は単なる優しいおばあちゃんではなく、非常に重要なキーパーソンでした。
それだけに比企尼と一族は幸せな結末には恵まれず、彼女はどんな最期を迎えたかも不明。
源頼朝にとって大恩人とされるこの女性がなぜそうなってしまったのか。
生前は一体どのような存在だったのか?
比企尼の生涯を振り返ってみましょう。
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母の縁により貴公子として生きた頼朝
源頼朝の人生は、多くの女性たちによって支えられていました。
生母・由良御前の親族は、崇徳・後白河両天皇の母である待賢門院や、上西門院と近しい関係にあり、少年時代の頼朝は、母の人脈から内裏に近い生活を送っていた。
貴公子としての素養は、こうした幼少期に培われたものです。
そして、父の源義朝が【平治の乱】に敗れ、斬首されたとき、その子である頼朝にも生命の危機が訪れました。
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このときの頼朝を救ったのも女性。
平清盛の継母である池禅尼が助命嘆願の末、頼朝の伊豆配流が決まりました。
そして生命を永らえた頼朝は、伊豆でも多くの乳母たちに見守られ生きていくことになります。
我が子の助命を願う乳母・山内尼
『鎌倉殿の13人』では山口馬木也さんが演じる山内首藤経俊。
彼の母は山内尼(やまのうちのあま)という女性で、源頼朝の乳母を務めました。
しかし息子は、頼朝と袂を分かちます。
治承4年(1180年)に挙兵した際、山内首藤経俊は平家方の代表的武士・大庭景親についたのです。
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石橋山の戦いでは頼朝に向けて矢まで射かけました。
そして形勢が一転し、頼朝が勝利すると、憎き山内首藤経俊には断罪が決まりました。
山内尼は我が子の命乞いに駆けつけます。
夫が山内首藤俊通は平治の乱で戦死したこと。源氏に代々仕えていたこと。
泣く泣く訴える彼女に、頼朝は黙って唐櫃の中から鎧を出して見せます。
そこには、石橋山で受けた矢が刺さったままの鎧があり、しかも、その矢にはこう書かれていました。
滝口三郎藤原経俊――
我が子の名ではありませんか!
血の気が引くとはこのことでしょう。さすがの山内尼も何も言えずに引き下がるしかありません。
しかし、です。
頼朝は罪を許し、経俊をかえって重用します。彼は恨みより乳母への恩義を見せることで、器の大きさを示したのです。
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頼朝は乳母のネットワークも重用し、人脈を築き上げています。
寒河尼の末子・結城朝光。小林隆さんが演じられた三善康信の伯母も、頼朝の乳母をつとめていました。摩々尼という乳母にも、所領を与えています。
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