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【比企尼】
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乳母の力
乳母とは、現代社会において忘れられたかのような存在です。
それゆえ、なぜこうも重んじられるのか、わかりにくいかもしれません。
そこで考えてみましょう。
仏教には「乳哺養育(にゅうほよういく)の恩」という言葉があります。
“子に乳を飲ませることは尊いことだ”という意味であり、流人生活中、読経に励んでいた頼朝は、そのことをしみじみと感じていたでしょう。
中国の『世説新語』には、漢武帝と乳母の逸話があります。
こんな話です。
あるとき、武帝の乳母が罪を犯しました。
乳母は知略で知られる政治家・東方朔に頼み込みます。
すると東方朔はこう言いました。
「もう何を言おうと、どうしようもない。助かりたいのであれば、弁明の場を立ち去る際に、帝に向かって振り向きなさい。
ただし、そのとき何も言わないことです。
それが最後の機となります」
乳母はこの助言に従い、武帝の前に立ちます。
武帝の横には東方朔がおり、強い口調で断罪します。
「愚か者めが! 陛下がいまさらお前ごときから乳を飲んだことなぞ、この裁きの際に考慮するわけがなかろう!」
そう言われながら、乳母は武帝の方を悲しげに振り返って去ろうとしました。
その姿を見て、あの武帝でも、心を動かされてしまいます。こうなるともう乳母を裁くことはできず、罪を許したのです。
偉大な英雄であろうと、乳を与えてくれた恩義は忘れられない――。
心あたたまる逸話と言えるでしょうか。
母乳の効能は科学的にも証明されつつあります。
19世紀末に開発された粉ミルクは瞬く間に世界へ広まりましたが、問題も立ち塞がりました。
21世紀になると、母乳の効能がさらに解明されてゆきます。
哺乳類の腸内環境は、母乳によって形成される。
腸内環境を整えることは、精神面での安定にも繋がる。
そうした母乳への恩義と効能を思えば、頼朝はじめ歴史上の偉人が乳母を重んじたことは必然といえましょう。
そこでの比企尼です。
彼女こそ、乳母の力の頂点に立ち、別格の存在感を持っていた一族でした。
比企尼 頼朝とともに伊豆へ
前述の通り、父・義朝の敗死後、源頼朝は池禅尼の嘆願により一命を救われ、伊豆へ流されました。
そこで源氏嫡流に忠節を尽くしたのが比企尼と夫の掃部允。
頼朝の跡を追い、二人は伊豆へ向かいます。
そして武蔵国比企郡を請所として、代官となることを選んだのでした。
以降、比企尼は、頼朝を支え続けます。
甥である比企能員を猶子とする一方、流罪から挙兵までの二十年間、比企尼は頼朝を慈しみ、援助を惜しみませんでした。
山内尼の嘆願を受け入れ、自らに矢を放った山内首藤経俊の命すら救った頼朝です。
ずっと助けてきてくれた比企尼の恩義を感じないワケがなく、比企一族はさらに権勢を強めてゆきます。
彼女には三人の娘がいて、非常に重要な姻戚関係を作っておりです。
◆長女の丹後内侍(たんごのないし)
二条天皇に仕え、惟宗広信との間に島津忠久と若狭忠季を産む。
鎌倉に下向した後は、足立盛長と再婚。
安達景盛、安達時長、源範頼の妻となる娘らを産む。
頼朝と親しく「島津忠久は頼朝のご落胤である」という説もあるほどですが、島津氏の祖であることからこじつけたと見られています。
ただし、そう噂されるほど親しかったことは確かだとか。
◆二女の河越尼(かわごえのあま)
河越重頼の妻であり源頼家の乳母でした。
つまり源氏の姻戚となりながら、後に義経の凋落に引きずられて河越一族は没落してしまいます。
ただし、後に子の重時は許され、所領を継承しました。
このように、比企尼の血を引く娘たちが、関東の豪族を繋ぎ止める役割を果たしていました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第13回放送では、比企能員の陰謀に載せられ、比企尼の孫という女性と夜を過ごした義経の姿がありましたね。
義経の正室である綾御前――。
彼女は河越尼の娘でしたが、比企尼の息子である比企能員、その娘たちも源氏と深い関わりがあります。
関東武士の妻となり、一族を団結させたのです。
例えば娘の一人である若狭局は、源頼家との間に一幡を産んでいます。
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しかし、そのことが恐るべき結末を……。
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