伊豆にいた頃は純朴真面目な青年だったのに、いつの間にか陰謀を駆使しながら政敵を葬りまくってきた――。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時。
嫁には毒を盛られるし、ついには姉にトドメを刺されるわ……と最終回を見て驚くと同時にこんなことも思ったりしませんでしたか。
『史実の北条義時はどんな最期を迎えたのだろう?』
和田義盛や父の北条時政を追い込んだ経緯からして、きっとロクでもない死に方なんだろな、と考えたくもなりますが、結論から申しますと“病死”です。
それも「脚気(かっけ)」と「暑気あたり」で、貞応3年(1224年)6月13日に亡くなっています。
えっ、脚気って死ぬの? マジで?
思わず拍子抜けしそうになりますが、他ならぬ『吾妻鏡』にそう記されているのです。
では、脚気とはどんな病気なのか。
その辺の疑問を現役の医師である歴女医・馬渕まり先生にお答えしていただきましたので、どうぞご覧ください!
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膝下を叩いて脚がピョコン
脚気と言えば、まず最初に思い浮かべるのが
膝の下を叩いて、脚がピョコンとならない場合は脚気――
という方、意外と多いのではないでしょうか。
あるいは医療タイムスリップ漫画『仁-JIN-』でも玄米を食べなくなった江戸で流行ったりしていましたね。
脚気は「ビタミンB1が慢性的に高度に不足すると起きる病気」です。
ビタミンB1は、糖質や脂肪酸の代謝に関わる大切な栄養素。
慢性的な不足状態に陥ると、脚気になって多発性神経炎(末梢神経の機能不全)や心不全(心臓機能の衰弱)、浮腫(むくみ)などを発症します。
前述の「膝の下を叩いて脚が跳ねるかどうか」という検査(膝蓋腱反射)も、実は末梢神経障害の有無を見ていたんですね。
そして脚気に伴う心不全は脚気衝心と呼ばれ、最悪の場合、死に至ります。
そう、脚気は死ぬ病気なんですが、では義時の状況はどうだったのでしょう?
義時の症状は脚気と霍乱
北条義時が危篤状態になったのは貞応3年(1224年)6月13日のことでした。
新暦ですと7月になり、この年は暑さが厳しかったようで義時は頻繁に体調を崩し、13日に至っては病状の悪化が止まらず、陰陽師らが呼ばれて祈祷も行われます。
当時は本気で占いをする時代ですが、当然ながら脚気対策にはなりません。
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『吾妻鏡』によると、「13日に危篤状態になった義時は、寅の刻(午前4時)に落飾(出家)をして、それから約6時間後、巳の刻(午前10時)に、脚気と霍乱(かくらん・暑気あたり)で亡くなった」と記されています。
まぁ、このときの義時は既に62歳でしたので、大往生と言えるのではないでしょうか。
由比ヶ浜で発掘された人骨の調査から「当時の平均寿命は24歳だった」という研究結果もありますが、特定のエリアから出た遺骨ですし、鎌倉時代は成人せず亡くなってしまう子供の死亡率がかなり高かったはずですので、あくまで参考程度と捉えた方がよいかもしれません。
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いずれにせよ62歳はかなりの長寿です。
後鳥羽上皇と対峙した【承久の乱】が死の3年前で、承久3年(1221年)。
実際に戦場へ出向いたのが息子の北条泰時や弟の北条時房とはいえ、59歳で最大の危機を乗り越えたこと自体が驚異的なんですよね。
思えば大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、魚介類や野菜、あるいはキノコが豊富に盛られた場面がありました。
和田義盛と源実朝が鹿汁をつつくシーンも、本当に美味しそうでしたし、坂東武士は食生活による体力増強は問題なかった……と言いたいところですが、脚気となると考えなければならない別の問題があります。
主食のお米です。
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