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【北条宗時】
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石橋山から逃れるも散る
流人生活を二十年以上送った源頼朝は、治承4年(1180年)8月17日、ついに立ち上がります。
伊豆目代・山木兼隆を討つべく、その邸宅へ向かったのです。
三島神社祭礼の夜――頼朝率いる軍勢は山木邸へ押し寄せ、緒戦を飾りました。
しかし、この合戦は実際のところ危ういものでした。
頼朝らが挙兵する前に、味方の佐々木秀義から、こんな情報が入っていたのです。
頼朝や北条らの叛逆を察知した平家の中で、討伐準備をする者がいる――。
頼朝らに本格的な準備をされては危うい! 叩かれる前に叩く!
そうして立ち上がった敵勢力がいたため、頼朝らは相模へ進軍するうちに、進路を阻まれてしまいました。
こうなったら石橋山に陣を張り、体制を立て直すしかない……。
しかし、三百騎余りの源氏に対し、敵の大庭景親は三千余騎。さらに背後からは伊東祐親が三百余騎を率いて迫っている。
絶体絶命――と、散り散りになった中、頼朝は箱根山中に姿を消しました。
父と弟とは別れ 祖父の軍勢に囲まれ
北条父子は頼朝とはぐれ、時政と義時は箱根を経由して甲斐へ逃れることにしました。
しかし宗時は桑原に降り、平井郷に出たところで、なんたることか、祖父である伊東祐親の軍勢に囲まれてしまいます。
そして小平井久重に弓で討たれたのでした。
あまりにも呆気ない最期です。
なぜ宗時は父や弟と別れたのか?
ただの偶発的なものなのか?
それとも一族で誰かが生き残る確率を高めようとした結果なのか?
理由は不明で想像するしかありません。
一方、宗時と別れた時政と義時は、生き延びることができ、源氏や北条の捲土重来はそこから始まります。
父と弟が疾風怒濤の活躍を遂げた一方、宗時の墓は静岡県函南町・函南駅のそばにあり、今ではひっそりと地味な佇まいをしています。
大河ドラマに役割があるとすれば、こうした墓跡を参拝する人が増えることかもしれません。
宗時を思い、合掌する人が増える。そのことそのものが追悼に……。
宗時の描写には意味がある
ドラマ序盤の派手な活躍の割に、退場が早かった北条宗時。
彼がいなくなることで見えてきたこともあります。
源頼朝にせよ北条義時にせよ、史実では親族仲間に対して容赦ない粛清を繰り返し、もしも宗時が長く生きていたら骨肉の争いが激化した可能性もある。
志半ばで散ったが故に、儚さを残して散ったように思えるのです。
史実における宗時の影は薄い。
それは否定できませんが、この兄が斃れたからこそ、あの北条義時が立ち上がってきたのだから、その死も必然だったかのように思えてしまう。
ドラマでは、政子と頼朝の燃え上がる恋だけでも、北条が源氏につく理由として説明はつきます。
それでも『鎌倉殿の13人』は、前のめりになって
「平家をぶっ潰す!」
と言い切る宗時を出してきました。
計画性がなく、ずさんで猪突猛進で、弟の義時は騒動に巻き込まれますが、そうした宗時の暑苦しさも制作側の意図だったのでしょう。
当時の武士たちは「こんな(宗時のような)嫡男ではよくない」なんて言い出さない。
彼が死を遂げるまで後継者として扱い、その資質に問題がなかったという「当時の規範」を示す意味がありました。
兄・宗時と弟・義時を並べ、見えてくるものもあったのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
安田元久『北条義時 』(→amazon)
他