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【司馬懿】
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曹丕のブレーンとして諸葛亮の行く手を阻む
曹操には渋々仕官した司馬懿ですが、その嫡子・曹丕とは気があったのでしょう。
ブレーンとして活躍。
曹操に使えた世代が退場してゆく中、魏きっての知将として、その存在感を増してゆきます。
蜀の諸葛亮のライバルとして、その行く手を阻む存在としても、三国志ファンにはおなじみでしょう。
こんな後世の描かれ方を本人がもしも知ったら、
「俺の活躍はそこだけじゃないだろ」
と、言いそうな気がします。
フィクションでは、どうしても諸葛亮の引き立て役になりがちですが、司馬懿の真骨頂はまだまだこれから。
曹操も、曹丕も、諸葛亮も世を去ったあと。魏王朝を侵食し、破滅に追い込むときなのです。
曹爽との対立
三国志を彩る英雄たちがあらかた退場しても、遅咲きの司馬懿はまだまだ全盛期。
237年、還暦を過ぎていたにもかかわらず、司馬懿は公孫氏を滅ぼして、洛陽に帰還します。
そこに待ち受けていたのは、死に瀕した曹叡(明帝/曹操の孫で、曹丕の子)でした。
曹叡の子は早世していたため、一族の曹芳が少帝として即位します。
ここで、まだ幼い曹芳を誰が補佐するのか?という権力争いが勃発するのです。
司馬懿と対立したのは、曹操の甥・曹真の子である曹爽でした。
司馬懿にとって曹真は元上司にあたります。はじめのうち数年間は、二人ともそこまで険悪でもありませんでした。
なにせ司馬懿は還暦過ぎの爺様です。
曹爽にしてみれば、
「どうせジジイだしコロッと逝くか、耄碌するだろう」
くらいの甘い見通しがあったのかもしれません。
曹一族のお坊ちゃまであり、野心だけはあって実力を伴わない曹爽。
彼は244年、司馬懿の反対を押し切り、武功欲しさに蜀に攻め入った挙げ句、大敗を喫してしまいます。
司馬懿はだんだんと曹爽派の政治壟断(ろうだん)がうとましくなってきたのでしょう。
「私もそろそろ歳ですしのう」
そう言い訳をして、隠退をしてしまうのでした。
既に七十近く、隠退してもおかしくはない年頃。それでも曹爽は警戒を怠りませんでした。
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