絵・小久ヒロ

周瑜は正史が激カッコいい!赤壁で曹操を打ち破った智将36年の生涯

更新日:

映画やマンガなどに登場する。
歴史上の人物は美化されがちで、ときに凄まじいイケメンや美女で描かれたりします。

しかし、中には『この程度の容貌なのか……』と首をひねりたくなる人物も稀におります。

周瑜です。

正史三国志に登場する彼は、ことに及んでクレバーで、それでいて情にも篤い非常に魅力的な人物。
にもかかわらず、現代の作品ではどうにも冴えない。

ジョン・ウー監督の大作映画『レッドクリフ』二部作で、ようやく香港を代表する名優トニー・レオンが演じましたが、残念ながら、少々年齢が行き過ぎていた感はあったものです。

それと身長が足りないような気もしました。
周瑜の没年と比較しても、無理があったものです。

※むろんトニー・レオンはよい役者ですが……

ではなぜ、周瑜は美形になりにくいのか?

一番の原因は、彼が【呉】の武将だからでしょう。

今後、本サイトで『三国志』関連の人物伝を取り上げていく中で、なぜ最初に彼にスポットを当てたのか?
その理由もまさしく、ここにあります。

立ち位置が不明瞭で不遇になりがち。
その代表格である彼を取り上げることに、意義を感じるのです。

短いながらもきらめくような――周瑜の一生を正史に基づき辿ってみましょう。

 

周瑜のいた呉という土地

周瑜の生涯を見る前に、どうしても【呉】という国や地域について説明をしなければなりません。
詳細は主君の【孫一族】に譲るとして、ザッと紹介しておきましょう。

まず、漢民族の暮らす土地とは、どこからどこまでのエリアなのか?
これがなかなか難しい問題です。

曖昧だったラインを引いたのは、始皇帝が端緒と言えましょう。
漢を通してその区別は強くなり、幾たびも匈奴をはじめとする周辺民族である山越族らとの戦いが繰り広げられました。

三国時代・要図(262年)/illust by Yeu Ninje wikipediaより引用

江東は、なかなか難しい場所なのです。

例えば孫権の容貌について『三国演義』では
「碧眼紫髯」
※青い目に茶色い髭
と記しています。

要は
【呉は漢民族だけの土地ではない】
という認識があるわけです

孫堅が腕っ節でのし上がった呉郡富春県(浙江省富陽県)は、漢民族とそうではない人々がぶつかり合う場所でした。17才の時の海賊討伐で、孫堅は名を挙げているのです。

そんな場所でのしあがった孫堅と息子たち。
異国情緒とワイルドな趣が感じられるわけです。
おそらくや『三国演義』はそこをふまえた容貌描写なのでしょう。

では、孫一族を支えた呉の人々は、どんな気風だったのか?

周瑜とも密接に関わってくるところですね。

 

孫策と周瑜

ワイルドなその土地の兄貴分であった孫堅は「黄巾の乱」で頭角を示し、董卓討伐からの動乱に身を投じます。
妻子は、江東に留まっておりました。

孫堅の長男・孫策は、まだ十代の少年です。
いくら勇武に長けているとはいえ、現在ならば高校生。ここからの孫策と周瑜の出会いは、史実だけで十分ロマンチックですので、大いに盛り上がりますし、かつ重要な点でもあります。

初平元年(190年)、孫堅の留守家族は廬江郡舒県(安徽省舒城県)に移り住みました。

この土地には、周という豪族が住んでいました。

後漢時代には、三公のひとつである大尉を二人輩出しているのですから、堂々たる名門です。
父・周異は洛陽の令をつとめています。

そんな一族に熹平4年(175年)、男児が生まれました。

周瑜、字は公瑾。

彼は成長するにつれ、立派な風貌の持ち主となりました。
その周瑜が、この地に越して来た同い年の孫策とたちまち意気投合したのです。

周瑜は、土地に不慣れな孫家を親切にもてなし、足りない生活必需品まで用意。
それどころか、道路の南側にある広い屋敷を一家に譲り、住まわせたのです。
そして、一家を率いる呉夫人に拝謁を欠かしません。

これには孫策も、その母・呉夫人も感激します。

この二人は同い年生まれで、周瑜が一ヶ月遅く生まれただけでした。
これはもう義兄弟だ――そう盛り上がってもおかしくはありません。

『三国志』の義兄弟といえば、「桃園三兄弟」こと【劉備・関羽・張飛】でしょう。
しかし、それだけではない。
江東にも篤い義兄弟がいたのです。

呉と蜀とは、こうした人情や義侠心ベースの政権でした。
そこが魏との違いです。
美談ではありますが、王朝の正統性が薄くなる部分もあることを、頭の隅にでも入れておいていただければと思います。

同い年で、まだ十代半ば。
始皇帝父子を助けた呂不韋のように、
「奇貨居くべし」
という打算を働かせることは、周瑜にはムリではないでしょうか。

そしてこの友情は、翌年には突如途切れることとなります。
孫堅が急死してしまい、その遺骸を引き取るために孫策が江東を離れねばならなくなったのです。

次に会えるのはいつの日か?
その日が来たら、絶対に駆けつけるぞ!

周瑜はそう誓っていたことでしょう。後日、実際、その通りに振る舞うこととなるのです。

 

君が来てくれたら願いが叶うよ!

時は流れて、興平元年(194年)――。
まだ十代の少年でありながら、孫堅の後継者となった孫策。
黄蓋・程普・韓当といった父の宿将を率いているとはいえ、乱世では小僧っ子に過ぎません。

当時、江東の実力者は袁術でした。
口が上手い袁術は、
「孫郎(孫のご子息)が、私の息子ならいいのにねぇ〜」
と言いながらも、舐めきった態度を孫策に取るのです。

三国時代・要図(198年)/illust by Meidosensei wikipediaより引用

孫策はそんな彼に頭を下げて、父の軍団を返還してもらい、配下の武将として戦うしかないのでした。

袁術の本拠地・寿春を出立した孫策軍団は、歴陽にたどり着く頃には五千から六千に拡大していました。
まだ若くとも、孫策には魅力と実力があったのでしょう。

そんな孫策が感激したのが、あの親友が手勢を引き連れ駆けつけて来たことでした。
当時、丹陽太守であった叔父・周尚のもとにいた周瑜は、孫策挙兵を聞いて即座に駆けつけたのです。

「君が来てくれるなんて、これでもう願いがかなったようなものだよ!」
孫策はまさに百人力の思いです。

合流した義兄弟は、江東を進撃し、メキメキと力を発揮するのでした。

 

全江東がこのコンビに惚れた

この江東進撃では、貴重な人材を得ることもできました。

張昭と張紘です。
『三国演義』では「江東の二張」と称されます。

彼らは荒れきった後漢の混乱を避けて、江東に避難していた知識人でした。

若く勢いのある孫策と周瑜とは異なる、政治的な手腕、経験、知恵のある人材です。
こうした人を迎えることによって、行政においても孫策は手腕を発揮する。

あの若い将軍は、敵を容赦なく攻撃するけれども、そのあとは仁政を敷くらしい
江東にはそんな噂が広まっていきます。
江東の民は、孫策を大喜び出迎えるようになってゆくのです。

しかも、その先頭に立つ孫策と周瑜は、カリスマ、スター性、そして美貌抜群というコンビでした。

周瑜のことを親しみを込めて、人々は「周郎」と呼ぶようになります。
周家の若君という意味です。

彼は音楽センスも抜群でした。
酒宴で酔っていても、演奏の間違いがあればその奏者を振り向いて見るため、
「曲をミスると、周郎が振り向く」(曲に誤り有り 周郎顧みる)
と流行語になるほど。
そんな音楽センスも、彼のカリスマ性をアップさせているのでした。

そんな周瑜のためを思っていたのか、孫策は鼓吹(軍楽隊)を与えました。
恩返しのつもりもあったのか、孫策は住居はじめ、ともかくさまざまなものを周瑜に下賜しています。
それですら、孫策からすれば不十分です。

「周瑜は賢くて、ともかく圧倒的だ。よく俺を支えてくれている。その功績と人徳に報いるのに、こんな贈り物くらいじゃ追いつかないよ」
そう語るほどでした。

そんな二人は、建安4年(199年)に妻を娶りました。
皖城を攻めた際に、捕虜の中に名士である橋家の姉妹を見つけたのです。

姉が孫策、妹が周瑜の妻となりました。

『百美新詠図伝』大喬小喬/wikipediaより引用

孫策は、周瑜に冗談交じりにこう言ったそうです。

「橋家の姉妹は美人だけど、俺らを婿にできたんだから、いいんじゃないかな」
そう本人ですら口にしてしまうコンビでした。

 

カリスマ性も人気もあった

そりゃ女性からは人気だろうけどさ。
そう言いたくなった方もいるでしょうか。
周瑜は呉の家臣団からも人気でした。

孫堅の代から使える程普は、家臣団でも最年長です。
剛毅でサッパリとした兄貴分で、周囲から「程公」と呼ばれ慕われる勇将でした。

そんな彼ですら、当初は周瑜に反発しました。

生意気な若造扱いをしていたのです。

ところが周瑜は丁寧にへりくだった態度を示します。
そんな彼を見て、程普は態度を改めます。アンチからファンになったのです。そしてこうですよ。

「周公瑾って、まるでうまい酒みたいだなぁ! つきあっていると、いつのまにか酔っ払っちゃたことにも気づかないほどだよぉ!」

もう完全にファンですね。
そういう魅力が、周瑜にはありました。

全江東がこのコンビに惚れた――というのは実は誇張でもなく、史実がそうですから仕方ありません。

味方ではなく、敵からも絶賛されました。
デキる人材が欲しくてたまらない、そんな曹操も実は周瑜をスカウトしています。
スカウトマンとして曹操が派遣したのあ蒋幹という人物でした。

平服を着て、旅行中だと偽り、さりげない様子で蒋幹は周瑜に接近しました。『三国演義』での蒋幹のことは、ひとまず横に置きましょう。

しかし、周瑜は見抜いています。
立ったまま、彼を出迎えました。
彼にしては若干の塩対応なのです。

「ご足労ですね。わざわざ曹氏のために、江東までいらっしゃるなんてね。スカウトマンになっていたなんて、知りませんでしたよ」
「いやいや、同郷じゃないですか。評判を耳にして、そういえばお元気かなと訪問しただけですって。曹氏のスカウトマンだなんて、そんなの邪推ですよぉ!」
「私程度でも、演奏の正邪を聞き分ける耳くらいはあるものですよ」

周瑜はそう言うと、来客として蒋幹をもてなし、所用が終わるまで三日ほど宿泊先にいるように、そうしたら迎えに行くと告げました。
そして自邸に蒋幹を招き、宴席で彼をもてなしました。

そのあと、孫一族から賜ったさまざまなもの、軍営の視察をさせたのです。

「私は幸せだ……表面的には君臣であっても、まるで肉親のように扱っていただき、これほどまでに気遣ってもらうとは。どんな意見も、聞き届けていただける。幸も不幸も、皆主君と同じ。どんな人物が私を説得しようと、その好意に報いつつも私は断るだろう。ましてや、あなたのようなお若い方の説得に応じるわけにはいかないのですよ」

蒋幹はもう、諦めるしかありませんでした。

ことの次第を曹操に報告し、周瑜が度量と高い精神性を兼ね備えていると告げるのです。
以来、中原でますます周瑜の名声は高まったのでした。

 

世代交代へ

建安3年(198年)頃、もう一人重要な人物が孫策の配下となりました。

周瑜は一旦叔父のいる寿春に戻ります。
しかし、ここで袁術が周瑜をスカウト。周瑜はその手から逃れ、居巣へと向かいます。

そこで【魯粛】という土地の有力者と意気投合するのです。
これも、なんとも豪胆なエピソードがありまして。

「食料を援助していただけませんか」
そう言ってきた周瑜に、こう返したのです。

「どうぞ、どうぞ。この倉ごと持って行ってください」

これは只者ではない……と驚いた周瑜。
中国では、こうした気前の良さが大変重視されます。

只者ではない。
義侠心が溢れている。
見る目がある。
そう判断されるのです。

話してみると、頭脳が実にキレる――かなりの人材だとわかりました。
かくして、孫策の元にはもう一人、優秀な人材が増えたのです。

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その一方で建安4年(199年)、世代交代のような出来事がありました。

因縁ある「伝国の玉璽」を手にし、それもあってか浮かれていた袁術が血を一斗あまり吐いて亡くなったのです。

「袁術がこんなオチかよ……蜂蜜入ったが水飲みたい……」
そう嘆いて亡くなりました。
江東の世代交代はかくして終わったと言えます。

しかし、孫策と周瑜というゴールデンコンビの前途も明るいだけでもありませんでした。

 

小覇王孫策、無念の死

袁術の残した軍勢を融合し、力をつけた孫策はここで賭けに出ようとします。

当時、中原では曹操と袁紹が激突する【官渡の戦い】真っ最中。
献帝のいる許は手薄でした。

孫策は、進軍していた荊州から戻り、手勢を集結させるのです。
そして、この許を突いて中原の制覇を目指しておりました。

かの項羽以来、江東にとって壮大な夢でした。

しかし、これは見果てぬ夢となってしまいます。
丹徒という場所で狩猟を楽しんでいた孫策は、そこで許貢の配下にいた刺客に襲われ、瀕死の重傷を負ってしまうのです。

枕元に集まった弟の孫権、そして重臣を前にして、孫策は遺言を残します。
親友であり、義弟のような周瑜が巴丘にいることが心残りでした。

家臣に孫策は、弟のことを頼みます。

「中原は今、混沌の最中。江東の地の利を生かせば、天下を伺うことができる。どうか我が弟を支えてくれ」

それからその弟にこう伝えるのでした。

「そこを乾坤一擲で突くのであれば、俺が上手だ。しかしお前には、人材を見抜いて集めて、忠誠心を尽くさせて、江東を守る力がある。その点ではお前が上手だ……」

享年26という若さで、散ってしまった小覇王こと孫策。
この暗殺事件で、孫策が恨みを買うような性格だったと誤解しないでいただければと思います。

許貢は、かつて孫策に敗れた長官のことです。
始皇帝が暗殺に悩まされたように、中国はじめ東アジアでは、滅ぼされた勢力の者が、滅ぼした側をつけねらう暗殺は「義挙」とみなされてきました。

孫策が残酷だったとか。
そういうこじつけは歴史を歪ませるものです。

むろん、孫策にも欠点がなかったとは言えません。

単独行動はあまりに不注意でした。
周瑜が巴丘ではなく、彼の側にいれば……と、どうしても、そう思ってしまう。

孫策の死は、歴史的な損失でした。

彼が死の直前に考えていた、江東からの進撃は叶わぬ夢――。
長い中国史を見てみると、統一王朝において江東に都が置かれた時期は短いものです。どうしても中原優位という意識は見られるものです。

中原だけが中国ではない。
そんな思いを、香港、台湾、上海といった場所から、現代でも感じることがあります。

覇王こと項羽。
小覇王こと孫策。
そんな江東のシンボルとして魅力的だと思えるのです。

そのチャレンジ精神は、今も残されているはずです。
後日、あらためて書かせていただきますが、孫氏政権浮上の理由として「伝国の玉璽」があったとされています。

孫堅が玉璽を入手していたのか、はっきりしない点もあります。
状況としては、江東の袁術の手にあったことは確か。

しかし、それさえ手に入れれば誰もがひれ伏すような、そんな過大評価を玉璽に与えることはできないでしょう。

江東という土地。
そしてそこに住む人。
その意思こそが、呉の基盤にあったことは確かなのです。

ともかく周瑜、喫緊の課題は、孫策の弟・孫権を如何にして次なる王へともり立てていくか、でした。

 

孫権を支えて

孫策の弟・孫権、まだ19才。
兄の死直後は、衝撃のあまり引きこもってしまい、政務どころではありません。

しかも、孫堅以来の家臣たちが、どうしても孫権を小僧扱いしがちです。

そこで周瑜は、率先して孫権に礼を尽くしました。
そんな姿を見ていれば、孫権を侮っていた家臣も反省するわけです。

孫権は周瑜のサポートを得ながら、新体制を築こうとします。

ぶっ飛んだ言動をする魯粛に文句たらたらの張昭をなだめ、諸葛瑾(諸葛亮の兄)を家臣として迎え、山越族を抑える。
若いながらも、孫権は才能を発揮します。
兄・孫策が見込んだ通り、江東の基礎固めのセンスがあったのでしょう。

しかし、そんな彼に、早速、無理難題が降りかかってきます。

「官渡の戦い」を制覇した曹操は、最高に盛り上がっていました。
後世の人間からすれば、それにはまだまだ早い!と突っ込みたくもなりますが、袁紹を倒したからにはそうなります。

諸葛亮を迎える前の劉備は、ウロウロするフリー武装集団です。
孫権も、兄の跡を継いだ小僧に過ぎません。

そんな状況ですから、曹操は、人質として我が子を差し出せと孫権に要求してきたのです。

張昭ら慎重派の意見は、明確。

「曹操は日の出の勢いですからな。おとなしく要求を飲みましょう」

しかし、孫権は納得できません。

こんな時こそ、母とともに周瑜の意見を聞こうと思い立つのです。母と二人で、周瑜の部屋へと向かいました。

すると周瑜は、キッパリと言いました。

「父上と兄上の功績を受け継ぎ、あなたは我らは江東の六郡を支配しております。

将兵は勇猛果敢、向かうところ敵なし。
脅迫されたくらいで、従う理由はございません。

人質を送れば、結局は曹操の元につくことになりましょう。
曹操の行動に従い、出兵せねばなりません。指図をいちいち受けてしまいます。

ご自身の勇敢さを信じ、天命をよく見てください」

この言葉に、呉夫人は我が意を得たりと頷きます。

「その通りですとも!策と生まれが一歳違いの周瑜は、私にとっても我が子のようなものと思っています。お前も彼を、兄と思いなさい」

孫権もまさにこれだと賛同。
周瑜には、主君の考えをまとめて言語化する、そんな知能と誠意がありました。

この江東独立的な周瑜の精神は、後にも生きてくることとなります。

ここでちょっとご注意を。
いちいち母親を連れて意見を聞く孫権を、マザコンだのなんだの思わないでください。

儒教思想が根底にある中国では、母の意見は大事なことなのです。
むしろ親孝行で意見をしっかり聞く、そういうプラス評価だととらえましょう。

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建安8年(203年)。
孫権は父の仇である黄祖の攻略にかかります。

五年の歳月を経て、その首をとったのは周瑜率いる軍でした。
黄祖配下の甘寧を配下に加え、孫権は確固たる政権基盤を作り上げたのです。

その運命は、着々と決戦へと進んでいくのでした。

 

荊州の戦乱

南の呉に対し、北の魏。
日の出の勢いの曹操は、着実に勢力を伸ばしていきます。

そして、南北の間に挟まる場所が、荊州でした。
『三国志』ファンならば、頷いてしまうあの場所です。

建安13年(208年)、曹操は北中国を支配し、兵を南へと向けます。

荊州は、劉表の死後、お家騒動で揉めていました。
そんな中決定した劉琮は、曹操に立ち向かうことすらできません。

この荊州には、劉備とその配下の者たちが身を寄せていました。

曹操に従うことを潔しとしない劉備たちは、曹操の大軍に追われる中、南へと逃げます。
このとき、劉備の子である劉禅を抱え、趙雲が奮闘したのが「長板の戦い」です。

そして、そんな劉備一行と合流したのが、魯粛でした。

魯粛のプランは、曹操が北を治め、孫権が南を収める「天下二分の計」でした。
諸葛亮の「天下三分の計」が圧倒的に有名ですが、基本的な部分では一致します。

ひとまず曹操を何とかしなくてはならない点で、一致するわけです。

劉備の主従が孫権のもとへ迎え入れられ、曹操からはこんな勧告が届きます。

「劉琮はあっさり降伏しました。80万の水軍を率いて、今度はあなたたちと呉で狩りをしますので、よろしくお願いします」

降伏勧告です。
これを受け、孫権主従も大騒ぎとなるのです。

 

ここに周瑜を呼び戻せ!

早速、重臣会議が始まりました。

現実的な張昭は、人質を送り降伏しかないと判断します。
魯粛は前述の通り、抗戦論です。

ただし、魯粛は話のスケールが大きすぎるのか、理解されにくい。
空気を読めない奴がホラを吹いていると言われかねない状態であり、ジッと黙り込むばかりです。

諸葛亮は、孫権を煽りました。

「抵抗するならば、国交断交ですね。そうでないなら、もう臣下として頭を下げてしまえばよろしいでしょう」

諸葛亮もなかなかの弁舌ですが、所詮は外部から来てい余所者よそものです。
孫権は抗戦したいのですが、説得できませんでした。

「ちょっと用を足してくる」

孫権は会議に疲れ、トイレに行きました。すると魯粛がこっそり付いてきたのです。

その手をひしと掴む孫権。

「この件どう思う? お前なら意見があるよな?」

「正直に言いますよ。私のような家臣ならば、曹操の元で就職できるでしょう。しかし、主君であるあなたは身の置き所がなくなりますね。降伏したらおしまいです」

孫権は、こんな時こそ彼に頼るべきだと思い出します。

周瑜です。

困った時は、兄のような彼こそ頼りになるはず――と、三十キロほど離れた鄱陽にいる周瑜を呼び出し、意見を聞くことにしました。

孫権は、周瑜が戻ると二人で母の呉夫人の元へ向かいます。
ここで、周瑜は理路整然と、降伏論に反対したのです。

「曹操は後漢王朝を蝕む悪党ではありませんか。

それに対して我らが主君は、智勇にすぐれ、父上と兄上の功績を基盤とし、この江東を堂々と治めておられます。
江東は広大であり、その民はあなた様のために力を尽くすことを望んでおります。

ここは正々堂々と、後漢のために尽くしましょうぞ。
曹操は気づいてはおりませんが、自ら死地に飛び込むようなもの」

両軍の戦力、戦況は、おおよそ次のような通りでした。

呉の水軍は強い。
一方で敵は騎兵戦や歩兵戦に長けているが不利。

馬超や韓遂がまだ降伏しておらず、曹操の背後をおびやかしている。

この冬、食料もろくにない時期。
長距離行軍は疲弊を生み、風土病に罹る可能性も高い。

そして周瑜はこう続けます。

「精鋭3万の兵をお与えになり、夏口まで進軍させてください。必ずや勝利してみせましょう」

勇気百倍の孫権。
これだ、まさにこれを待っていた!

彼も一気に自分の考えを明かします。

「あの老いぼれ(曹操)め、あいつが後漢を滅ぼし、帝位に就こうとしていることは明白だろうが! 袁紹、袁術、呂布、劉表、それに私が邪魔だっただけだ。私以外は皆滅びてしまったが、奴と私は両立できん。あなたの意見こそ、私と一致する。天が、私にあなたを授けてくださったのだろう!」

孫権は、剣で目の前にあった机を両断してアピールします。

「今後、曹操に降れという奴は、この机と同じになるぞ!」

かくして、曹操と戦うことが決まりました。

周瑜はその夜、曹操のフェイクを見破ります。

「書状の80万。この数字だけで怯え、皆は検証をろくにしておりませんね。私の推察では、せいぜい15、6万。しかも疲弊している。荊州の軍勢も、7、8万でしょう。しかも、曹操に心服しているとは言い難い。このような士気の低い者は、数が多くとも恐ることはありません。精鋭5万。それで十分ですとも」

もっともな意見です。
当時は未曾有の人口減時代です。80万という数字は、誇張が過ぎます。

孫権は周瑜の背後に寄ると、背中を叩きながら語りかけました。

「公瑾どの、あなたの意見は私とぴったり一致します。張昭や奉松あたりは自分の妻子のことばっかりですよ。がっかりだ。あなたと魯粛だけがわかってくれる。まさにあなたたち二人は、天からの贈り物だ。5万は厳しいのですが、3万は準備できています。船も食料もありますので! 私が曹操と勝負をつけるとも!」

こうして、あの歴史的合戦へと運命が進んでいくのです。

 

「赤壁の戦い」

魏との対決を決意すると、すぐさま呉では、周瑜と程普という二将が左右の督(指揮官)に任じられました。
両者は一万を率いて、長江から西へと出発していきます。

水軍は手慣れたものです。
長距離行軍で疲弊もあったのか、曹操軍は大軍とはいえ、不利な戦況でした。

そこで彼らは赤壁に陣を敷き様子を見ることにします。

この赤壁の戦いでは、劉備主従の出番は目立たないものです。
劉備は陣中見舞いとして、魯粛や諸葛亮と面会を求めますが、周瑜は現場の指揮系統混乱を警戒して断っています。

硬直した戦線を破るのはどうするか?

となれば龐統の「連環の計」が出てくるものですが、あれはウソ。
あまりに劉備主従が目立たないため、『三国演義』を代表とするフィクションで付け加えられたものです。ここでは取り上げません。

打開策を提案したのは黄蓋。
孫堅の代から支えてきた将です。

「多勢に無勢では、持久戦では持ちません。しかし、どうやら曹操軍は密集し合い、船が重なり合っています。火計を行えば、効果覿面でしょう」

問題は、どうやって火をつけるか?
そこで、周瑜と黄蓋は作戦を練りました。

①黄蓋が降伏するという書状を、曹操軍に送る

②萩、枯芝に油をたっぷりと染み込ませる

③用意した②の可燃物を、蒙衝艦(駆逐艦)・闘艦(戦艦)に乗せる

④幔幕で覆って中身を見えないようにして、牙旗(将軍の旗)をつける

⑤この可燃物満載艦隊を、走舸(快速艇)が引くように縄をつける

⑥この艦隊を黄蓋が引っ張り、敵に突っ込ませる

『三国演義』では、ここで周瑜が黄蓋を鞭打ちにする「苦肉の策」が出てきますが、あれも盛り上げるためのフィクションです。

正史の曹操も、あっさり信じたわけでもありません。
黄蓋の書状を読み、使者に質問をしました。

そのうえで、こう告げたのです。

「偽りだと危険だからな。爵位と恩賞は弾むぞ」

かくして、黄蓋の艦隊は進んで行きます。
黄蓋は松明を掲げていました。船の上では、大声で「降伏!」と兵士たちが叫んでいます。

東南の風を受けて、旗指物がはためいていました。

「おっ、あれが降伏する将だな」

曹操軍がそう思っていると、突如、異変が起こります。
艦隊が火を吹き上げたのです。

そして、そのまま勢いがつき、東南の風を受け、曹操軍の艦隊は大炎上!
火炎地獄と化した曹操軍では、人馬の悲鳴があちこちで響いていました。冬の長江を命からがら逃げ行くほかありません。

するとそこへ、雷のように太鼓を打ち鳴らす、周瑜軍が追い打ちをかけました。

こんな大勝利の功績者である黄蓋は、流れ矢を受け長江に転落しました。
引き上げられたものの、厠に放置されてしまいます。黄蓋は気力を振り絞って、孫堅の代からの戦友・韓当の名を呼びました。

その声に韓当が気づき、涙ながらに介抱し、衣服を取り替えたのでした。
かくして黄蓋は、生存できたのです。

曹操の生涯最大の敗北であり、全国統一が頓挫した原因となった――これこそが「赤壁の戦い」です。

※この戦いを描いた映画『レッドクリフ』

あの曹操が、なぜこうも惨敗したのか。
理由はいろいろ考えられます。

周瑜が孫権に説明した理由が当たった部分もあります。
水軍での戦いは、不慣れでした。

中国史においては、長江の流れがキーポイントになります。

五胡十六国時代、383年の「淝水の戦い」も似たような要素があるものです。
華北・前秦軍と江東・東晋軍が激突した結果、前秦軍が大敗を喫しているのです。

中国が分裂した際、南宋のように長江から南に依拠する王朝も存在しました。
長江こそが天然の要害になりえるんですね。

気象条件も、大きなものです。
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周瑜は喝破しています。
気候条件由来の風土病による弱体化は、致命的な結果につながりかねない、と。そのことを証明する戦いは、歴史上幾つもあります。

周瑜は、兵法を熟知したまぎれもない知将でした。

こんな周瑜があまりに活躍するためか。
『三国演義』はじめ、フィクションでは劉備主従の動きが増量されていることは、今更指摘するまでもありません。

東南の風を呼ぶとか。
曹操軍から矢を借りるとか。
正史にはないことですので、カットします。

「正史の記述だと意外とつまらない、あっさりしている」
という意見はいかがなものかと思います。

これだけの大軍を、ここまできっぱりと破った戦いが地味ならば、世に伝わる戦いの大半がそうなるのではないでしょうか。
戦果、後世への影響を踏まえれば、十分に天下分け目と呼ぶに足る戦いです。

後に曹操が孫権に送った書状を、素直に受け取り過ぎている論も時折目にします。

「いや〜、赤壁では疫病蔓延したからさ〜、そのせいで船を焼いて自分から撤退したんだよね。そのせいで周瑜が虚名を得ちゃったからさ〜」

これは完全に強がり。
本音はこうだったようです。

「あの周瑜に負けたのならば、逃げることは恥ではない……」

こうやって心理的に動揺させたら、君臣間で仲が悪化して、周瑜がゲットできるかも。
負けてなお曹操にはそんな策もあったのでしょう。

 

荊州でぶつかりあう勢力とは?

曹操は、華容道をなんとか敗走していきました。
彼自身も苦労しましたが、残された配下はもっと大変なことになります。

南北の緩衝地帯である荊州が、またも重要拠点となります。かつては北からの侵攻を受けていたのが、逆転したのです。

孫権配下の将軍たちは、残る曹仁を攻め立てました。
呉からは、程普、甘寧、呂蒙、凌統ら、錚々たる面々が向かいます。曹操の配下でも屈指の勇将である曹仁は、よく守り抜きます。

この戦いの最中、馬で敵陣に乗り込もうとした周瑜は、矢で鎖骨を負傷してしまいます。

これを聞いた曹仁はチャンス到来とばかりに進軍!
そのため周瑜は病床から起き上がり、重傷をこらえ指揮を執り、将兵を感動させたのでした。

建安14年(209年)、激闘を経て、ようやく荊州・江陵城から曹仁は撤退します。
この城に入った周瑜は、南郡太守となりました。ここから荊州を治めると周瑜は気合いが入ったことでしょう。

ところが、意外な展開をみせるのです。

なんと、劉備主従が荊州南部(武陵・長沙・桂陽・零陵)を制圧して支配し始めたのです。

しかも、荊州を支配していた劉琦が亡くなると、自ら荊州牧を名乗り出したのですから、周瑜からすれば不愉快極まりない状態。
その背後には、あの男がいました。

そうです、諸葛亮の「天下三分の計」です。

孫権はとりあえず、妹の孫夫人を劉備に嫁がせて様子を見ることにしました。
それでも劉備は周瑜の認める荊州支配範囲があまりに狭いと、クレームをつけてくるのでした。

三国時代・要図(262年)/illust by Yeu Ninje wikipediaより引用

 

天下二分か、天下三分か

周瑜はこれを警戒し、こんな策を孫権に進言しました。

劉備を侮ってはなりません。
関羽や張飛といった将を擁しているからには、いつまでもあのままではおりますまい。

劉備を呉に呼び出しましょう。
立派な家でも作り、美女や娯楽を側に置いて、骨抜きにするのです。

そして関羽や張飛は地方に派遣します。
私のような者が彼らを使いましょう。これぞ成功間違いなしの策です。

奴らをまとめて土地を与えてやる。
危険極まりないことです。

この状態を蛟竜雲雨こうりゅううんうと呼び、警戒心を示しています。

【蛟竜雲雨を得ば、終に地中の物に非ず】
【訳】池の中でおとなしくしている龍は、雲や雨を得れば力を増し、ついに飛び出してしまう

しかし、孫権はこの策を却下しました。
曹操と対抗するためにも、劉備が必要だと油断したのです。

実は、劉備もギリギリでした。
京口まで呼び出されたところを、諸葛亮に止められていたのです。

あとから周瑜の策を聞き、ホッとしたそうです。

「あっぶねー! 頭のいい奴って、そういうことを思いつくもんだな。諸葛亮が止めてくれて助かったわ。あのままいたら、周瑜の思う通りになった」

劉備も周瑜は警戒して、孫権にこう言ったこともあるほどでした。

「公瑾どのは、知勇兼備、まさに英傑ですよね。あれほど器量が大きい方が、いつまでも人のもとに仕えているとは思えないわけでして……」

これも、褒めることで君臣の仲に不信感を抱かせるための発言でしょう。

周瑜に比べて、孫権は甘いところがありました。蜀攻略を共同してやろうと持ちかけたのです。
劉備は返事を濁し、ごまかしました。
それはそうでしょう。蜀こそが、劉備が欲しい土地なのですから。

孫権はそんなものかと諦めかけますが、周瑜は違います。
蜀こそ劉備の狙いと見抜いていたのかどうか。そこはわかりません。

しかし、彼が蜀攻略を狙っていたことは確かなのです。

 

早すぎた死

建安15年(210年)。
蜀は、そこを支配したいものにとってはチャンスのときでした。

宗教団体である五斗米道の張魯が蜀を攻撃するものの、劉璋は防ぐほどの気概がない人物。
そこにつけいれば、支配は容易い状況だったのです。

周瑜は亡き孫策と同じく、北へと向かう策を思い描いていました。

曹操が赤壁の敗戦から立ち直れていない今こそが、好機。

蜀を手に入れる。
張魯を降す。
西涼の馬超とも協力する。
襄陽を拠点として、そこから曹操を追い詰め北を目指す。

孫策の悲願を焼き直した、大胆なものでした。

ちなみにこの襄陽は、1268年から1273年にかけて、モンゴル帝国と南宋の戦いが行われた場所です(襄陽・樊城の戦い)。
南北が激突する場所でした。

しかし、周瑜は、策のため江陵を目指していたとき、巴丘で病に倒れてしまうのです。

彼は死の床で、大胆さを身上とする魯粛を後継者として指名。
曹操、そして劉備を懸念し、この乱世をどうかよく治めて欲しいと孫権に訴えました。

私の進言を聞き入れてくださるのであれば、死しても後悔はありません――。

そう言い残し、周瑜は早すぎる死を迎えたのでした。
享年36。

くしくも親友であり、義兄弟のようであった孫策と似た状況での最期とも言えました。

二人とも、北を制覇する大胆な戦略を抱いたまま、短い命を終えたのです。
十年の差がそこにはありました。

孫権は周瑜の遺体を迎えに出て、悲しみのあまり号泣しました。

「公瑾どのこそ、王佐の才の持ち主だった。そんな彼がこんな短命で世を去られてしまうなんて。私はこれから、誰を頼りにすればいいのだ!」

その様子は、周囲で聞く者たちの胸が張り裂けるほどでした。
のちに帝位についたとき、孫権は周囲にこう語ったのでした。

「朕がこうして即位できたのも、公瑾どのあってのことだ……」

周瑜の死後、魯粛は前任者ほど厳しい態度を劉備に取りませんでした。

建安11年(211年)、劉備は蜀へ侵攻し、三年後に制覇。
「天下三分」はかくして成立します。

周瑜や魯粛の「天下二分」と、諸葛亮の「天下三分」は、後者の勝利のように思えます。
それも、周瑜の夭折あってのことです。

なお、ここでは『三国演義』はじめとするフィクションで、
【諸葛亮に勝てないと絶叫し、血を吐きまくる周瑜のこと】
は記述しておりません。

正史の事績を追うだけで十分有能かつ魅力的です。
正史と異なり、傲慢で短気で嫉妬深い周瑜の姿については、『三国演義』ベースのフィクションでお楽しみください。

 

江東の誇り高き魂

孫策や周瑜の戦略は、中国史を考えるうえでの重要な点です。

三国時代の後、中国史は大動乱を迎えます。
長江の南側は、しばしば追い詰められた漢民族が依拠する地となりました。

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「淝水の戦い」における東晋。
「襄陽・樊城の戦い」のおける南宋。
明末清初における、中国南部における激しい抵抗。

長江の南側で奮闘する彼らの姿の起点は、周瑜以前にもあったものでしょう。
しかし、大勝利できると示したとなれば、やはり周瑜の功績は大きいものです。
そういう江東のプライドや誇り高さが、周瑜の生き方と戦略から感じられます。

周瑜は魅力的です。
その智勇、弁舌、戦略、戦術。
美貌、音楽センス、孫策との友情、寛大さと謙虚さを持ち合わせた性格は、いうまでもありません。

それだけではありません。
江東という土地、そこに住む人々、その志を一致させ、昇華させてゆくプライドは、極めて気高いと言えるのではないでしょうか。

そういう気高さは諸葛亮にもあるでしょう。
ただし、彼の場合は蜀に生まれ育ったとは言えません。その土地に根付いているかと言われると、少し違う気がしてしまいます。

歴史的に見れば、漢王朝の後継にあたる曹一族の魏。
根拠は薄いものの、フィクションでは漢王朝の後継者とされ、善玉扱いされた劉一族の蜀。
それに対して、孫一族の呉は割りを食っています。

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かませ犬扱いが長いことなされて、正史を無視して『三国演義』ベースで語られてしまう。

周瑜といえば、諸葛亮にライバル意識を燃やして、血を吐きまくるヒステリックな扱いが定番です。

 

冒頭に挙げた【美形にされない問題】も、彼が呉の将だからということが大きな要因ではないでしょうか。

短気なかませ犬に美形俳優を使うことはない。
そうなってしまうのでしょう……。

しかし、繰り返しますが、正史の周瑜は非常に魅力的です。
三国鼎立だって、彼の戦略と赤壁での勝利がなければ、ありえないことでした。

そんなもっと評価させるべき名将の活躍は、『三国演義』ではなく、正史ベースのフィクションをおすすめします。

映画『レッドクリフ』二部作は言うまでもありません。
小説は陳舜臣氏の『秘本三国志』を推奨します。

孫策と周瑜を扱かった小説には、ボーイズラブもあります。
タイトルと表紙からは判別しにくい作品も含まれています。それが好きな方は是非お読みいただければと思いますが、そうでない方は誤って読んでしまわないよう、ご注意ください。

正史を元にした評伝は、生き生きとした彼の魅力が伝わってきます。
まずはそのような書籍から当たってみることもよいでしょう。

本稿の参考文献をぜひとも当たってみてください。

文:小檜山青
絵:小久ヒロ

【参考文献】
『正史三国志6』ちくま学芸文庫(→amazon link
『正史三国志7』ちくま学芸文庫(→amazon link
『中国人物伝2 三国時代ー南北朝 反逆と反骨の精神』井波律子(→amazon link
『三国志曼荼羅』伊波律子(→amazon link
『読み切り三国志』伊波律子(→amazon link

 



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