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【周瑜】
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荊州の戦乱
南の呉に対し、北の魏。
日の出の勢いの曹操は、着実に勢力を伸ばしていきます。
そして、南北の間に挟まる場所が、荊州でした。
『三国志』ファンならば、頷いてしまうあの場所です。
建安13年(208年)、曹操は北中国を支配し、兵を南へと向けます。
荊州は、劉表の死後、お家騒動で揉めていました。そんな中決定した劉琮は、曹操に立ち向かうことすらできません。
この荊州には、劉備とその配下の者たちが身を寄せていました。
曹操に従うことを潔しとしない劉備たちは、曹操の大軍に追われる中、南へと逃げます。このとき、劉備の子である劉禅を抱え、趙雲が奮闘したのが「長板の戦い」です。
そして、そんな劉備一行と合流したのが、魯粛でした。
魯粛のプランは、曹操が北を治め、孫権が南を収める「天下二分の計」でした。
諸葛亮の「天下三分の計」が圧倒的に有名ですが、基本的な部分では一致します。
ひとまず曹操を何とかしなくてはならない点で、一致するわけです。
劉備の主従が孫権のもとへ迎え入れられ、曹操からはこんな勧告が届きます。
「劉琮はあっさり降伏しました。80万の水軍を率いて、今度はあなたたちと呉で狩りをしますので、よろしくお願いします」
降伏勧告です。
これを受け、孫権主従も大騒ぎとなるのです。
ここに周瑜を呼び戻せ!
早速、重臣会議が始まりました。
現実的な張昭は、人質を送り降伏しかないと判断します。魯粛は前述の通り、抗戦論です。
ただし、魯粛は話のスケールが大きすぎるのか、理解されにくい。
空気を読めない奴がホラを吹いていると言われかねない状態であり、ジッと黙り込むばかりです。
諸葛亮は、孫権を煽りました。
「抵抗するならば、国交断交ですね。そうでないなら、もう臣下として頭を下げてしまえばよろしいでしょう」
諸葛亮もなかなかの弁舌ですが、所詮は外部から来てい余所者です。
孫権は抗戦したいのですが、説得できませんでした。
「ちょっと用を足してくる」
孫権は会議に疲れ、トイレに行きました。すると魯粛がこっそり付いてきたのです。
その手をひしと掴む孫権。
「この件どう思う? お前なら意見があるよな?」
「正直に言いますよ。私のような家臣ならば、曹操の元で就職できるでしょう。しかし、主君であるあなたは身の置き所がなくなりますね。降伏したらおしまいです」
孫権は、こんな時こそ彼に頼るべきだと思い出します。
周瑜です。
困った時は、兄のような彼こそ頼りになるはず――と、三十キロほど離れた鄱陽にいる周瑜を呼び出し、意見を聞くことにしました。
孫権は、周瑜が戻ると二人で母の呉夫人の元へ向かいます。
ここで、周瑜は理路整然と、降伏論に反対したのです。
「曹操は後漢王朝を蝕む悪党ではありませんか。
それに対して我らが主君は、智勇にすぐれ、父上と兄上の功績を基盤とし、この江東を堂々と治めておられます。
江東は広大であり、その民はあなた様のために力を尽くすことを望んでおります。
ここは正々堂々と、後漢のために尽くしましょうぞ。
曹操は気づいてはおりませんが、自ら死地に飛び込むようなもの」
両軍の戦力、戦況は、おおよそ次のような通りでした。
呉の水軍は強い。
一方で敵は騎兵戦や歩兵戦に長けているが不利。
馬超や韓遂がまだ降伏しておらず、曹操の背後をおびやかしている。
この冬、食料もろくにない時期。長距離行軍は疲弊を生み、風土病に罹る可能性も高い。
そして周瑜はこう続けます。
「精鋭3万の兵をお与えになり、夏口まで進軍させてください。必ずや勝利してみせましょう」
勇気百倍の孫権。これだ、まさにこれを待っていた!
彼も一気に自分の考えを明かします。
「あの老いぼれ(曹操)め、あいつが後漢を滅ぼし、帝位に就こうとしていることは明白だろうが! 袁紹、袁術、呂布、劉表、それに私が邪魔だっただけだ。私以外は皆滅びてしまったが、奴と私は両立できん。あなたの意見こそ、私と一致する。天が、私にあなたを授けてくださったのだろう!」
孫権は、剣で目の前にあった机を両断してアピールします。
「今後、曹操に降れという奴は、この机と同じになるぞ!」
かくして、曹操と戦うことが決まりました。
周瑜はその夜、曹操のフェイクを見破ります。
「書状の80万。この数字だけで怯え、皆は検証をろくにしておりませんね。私の推察では、せいぜい15、6万。しかも疲弊している。荊州の軍勢も、7、8万でしょう。しかも、曹操に心服しているとは言い難い。このような士気の低い者は、数が多くとも恐ることはありません。精鋭5万。それで十分ですとも」
もっともな意見です。
当時は未曾有の人口減時代です。80万という数字は、誇張が過ぎます。
孫権は周瑜の背後に寄ると、背中を叩きながら語りかけました。
「公瑾どの、あなたの意見は私とぴったり一致します。張昭や奉松あたりは自分の妻子のことばっかりですよ。がっかりだ。あなたと魯粛だけがわかってくれる。まさにあなたたち二人は、天からの贈り物だ。5万は厳しいのですが、3万は準備できています。船も食料もありますので! 私が曹操と勝負をつけるとも!」
こうして、あの歴史的合戦へと運命が進んでいくのです。
「赤壁の戦い」
魏との対決を決意すると、すぐさま呉では、周瑜と程普という二将が左右の督(指揮官)に任じられました。
両者は一万を率いて、長江から西へと出発していきます。
水軍は手慣れたものです。長距離行軍で疲弊もあったのか、曹操軍は大軍とはいえ、不利な戦況でした。
そこで彼らは赤壁に陣を敷き様子を見ることにします。
この赤壁の戦いでは、劉備主従の出番は目立たないものです。
劉備は陣中見舞いとして、魯粛や諸葛亮と面会を求めますが、周瑜は現場の指揮系統混乱を警戒して断っています。
硬直した戦線を破るのはどうするか?
となれば龐統の「連環の計」が出てくるものですが、あれはウソ。
あまりに劉備主従が目立たないため、『三国演義』を代表とするフィクションで付け加えられたものです。ここでは取り上げません。
打開策を提案したのは黄蓋。孫堅の代から支えてきた将です。
「多勢に無勢では、持久戦では持ちません。しかし、どうやら曹操軍は密集し合い、船が重なり合っています。火計を行えば、効果覿面でしょう」
問題は、どうやって火をつけるか?
そこで、周瑜と黄蓋は作戦を練りました。
①黄蓋が降伏するという書状を、曹操軍に送る
②萩、枯芝に油をたっぷりと染み込ませる
③用意した②の可燃物を、蒙衝艦(駆逐艦)・闘艦(戦艦)に乗せる
④幔幕で覆って中身を見えないようにして、牙旗(将軍の旗)をつける
⑤この可燃物満載艦隊を、走舸(快速艇)が引くように縄をつける
⑥この艦隊を黄蓋が引っ張り、敵に突っ込ませる
『三国演義』では、ここで周瑜が黄蓋を鞭打ちにする「苦肉の策」が出てきますが、あれも盛り上げるためのフィクション。
正史の曹操も、あっさり信じたわけでもありません。
黄蓋の書状を読み、使者に質問をし、そのうえでこう告げたのです。
「偽りだと危険だからな。爵位と恩賞は弾むぞ」
かくして、黄蓋の艦隊は進んで行きます。
黄蓋は松明を掲げていました。船の上では、大声で「降伏!」と兵士たちが叫んでいます。
東南の風を受けて、旗指物がはためいていました。
「おっ、あれが降伏する将だな」
曹操軍がそう思っていると、突如、異変が起こります。
艦隊が火を吹き上げたのです。
そして、そのまま勢いがつき、東南の風を受け、曹操軍の艦隊は大炎上!
火炎地獄と化した曹操軍は、冬の長江を命からがら逃げ行くほかありません。人馬の悲鳴があちこちで響いていました。
するとそこへ、雷のように太鼓を打ち鳴らす、周瑜軍が追い打ちをかけました。
こんな大勝利の功績者である黄蓋は、流れ矢を受け長江に転落、引き上げられたものの、厠に放置されてしまいます。
黄蓋は気力を振り絞って、孫堅の代からの戦友・韓当の名を呼びました。
その声に韓当が気づき、涙ながらに介抱し、衣服を取り替えたのでした。かくして黄蓋は、生存できたのです。
曹操の生涯最大の敗北であり、全国統一が頓挫した原因となった――これこそが「赤壁の戦い」です。
※この戦いを描いた映画『レッドクリフ』
あのキレ者・曹操が、なぜこうも惨敗したのか。
理由はいろいろ考えられます。
周瑜が孫権に説明した理由が当たった部分もあります。水軍での戦いは、不慣れでした。
中国史においては、長江の流れがキーポイントになります。
五胡十六国時代、383年の「淝水の戦い」も似たような要素があるものです。華北・前秦軍と江東・東晋軍が激突した結果、前秦軍が大敗を喫します。
中国が分裂した際、南宋のように長江から南に依拠する王朝も存在しました。
長江こそが天然の要害になりえるんですね。
気象条件も、大きなものです。
あれほど強かったナポレオンですら、気象条件が大きく異なる半島戦争では苦戦し、それ以降は下り坂へと向かってゆきます。
周瑜は喝破しています。
気候条件由来の風土病による弱体化は、致命的な結果につながりかねない、と。そのことを証明する戦いは、歴史上幾つもあります。
周瑜は、兵法を熟知したまぎれもない知将でした。
こんな周瑜があまりに活躍するためか。『三国演義』はじめ、フィクションでは劉備主従の動きが増量されていることは、今更指摘するまでもありません。
東南の風を呼ぶとか。
曹操軍から矢を借りるとか。
正史にはないことですので、カットします。
「正史の記述だと意外とつまらない、あっさりしている」
という意見はいかがなものかと思います。
これだけの大軍を、ここまできっぱりと破った戦いが地味ならば、世に伝わる戦いの大半がそうなるのではないでしょうか。
戦果、後世への影響を踏まえれば、十分に天下分け目と呼ぶに足る戦いです。
後に曹操が孫権に送った書状を、素直に受け取り過ぎている論も時折目にします。
「いや〜、赤壁では疫病蔓延したからさ〜、そのせいで船を焼いて自分から撤退したんだよね。そのせいで周瑜が虚名を得ちゃったからさ〜」
これは完全に強がり。
本音はこうだったようです。
「あの周瑜に負けたのならば、逃げることは恥ではない……」
こうやって心理的に動揺させたら、君臣間で仲が悪化して、周瑜がゲットできるかも。負けてなお曹操にはそんな策もあったのでしょう。
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