ヒトラーの息子

ヒトラーの死を伝える『星条旗新聞』号外/wikipediaより引用

世界史

「お前の父親はヒトラーだよ」母の告白に仰天した反独レジスタンス兵

世の中、本人に何の落ち度も無いのに、生まれながらに重い十字架を背負っている人がいたりしますよね。

今回は、第一次世界大戦のせいで、そうした十字架を背負う事となってしまった、ある男性の一生に注目してみましょう。

 


ドイツに占領されたフランス北部で出生

1918年3月18日、ベルギーとの国境に近いフランスのスボンクールという街で、男の子が生まれます。

ジーン・マリーと名付けられていました。

母親は、シャルロッテ・ロブジョという、当時20歳の女性。

父親は「名前の分からぬドイツ兵」と、役所には届けられていたそうです。

スボンクールは、北フランスにあります。

つまり、第一次世界大戦でドイツ側が占領していた地域。

このスボンクール近くのスクランやフルネ=アン=ヴェップ、ヴァヴラン、アルドーイェ(ベルギー)などを1916年から17年にかけて転戦していたのが、若き日のアドルフ・ヒトラーでした。

ロブジョはダンサーを職業としていました。

どこでどう出会ったかは分かりませんが、恐らくどこかで踊っていた所をヒトラーが見そめたのでしょう。実際、2人がデートしている所は複数の人に目撃されているそうです。

しかし戦後、ドイツ軍は当然の如く撤退。

故郷に居づらくなったのか、出産後のロブジョはパリに引っ越します。

ジーン・マリー君は、ここで祖父母らと共に幼少期を過ごします。

やがてロブジョは、1922年にクレメント・ロレットという男性と結婚。

「連れ子の面倒は見る」との申し出に感動してのゴール・インだったそうですが、こうなると逆に「ボクの本当のお父さんって誰なの?」とは訊きづらくなってしまいますよね。

いざ結婚生活が始まると、ロレットの祖父から虐待を受けるなど、辛い生活だったようです。

 


第二次世界大戦でレジスタンスとして抵抗

ジーン・マリーは1936年に入隊し、軍曹として働き、除隊後は鉄道員になります。

そうこうするうちに、第二次世界大戦が勃発。

電撃戦でフランスが降伏すると、今度は占領軍に協力をさせられました。

ゲシュタポ関係の業務を請け負わされたそうですが、戦後になって「対独協力者」として訴追されませんでした。

というのも、密かにレジスタンスのメンバーになっていたようなのですね。面従腹背と言えましょうか。

一歩間違えばドイツ側から、また、そうした役割をしていると知らないレジスタンスの同志からも狙われる危険性がある、実に危険なポジションでした。

捕まって白状されてもダメージを最小限に抑えるために、横同志の連絡は禁止されていましたし、必要最小限の事しか知らされていなかったのですから仕方ありません。

 


臨終の母に「お前の父親はヒトラーだよ」

ジーン・マリー当人にしてみれば、父親がドイツ人だと戸籍で分かっている以上、余計にフランスへの忠誠心を示さねばならなかったのでしょう。

それゆえのレジスタンス活動となり、心中密かに自負する所もあった所に、驚愕の展開が。

53歳という若さで死に至る病を得てしまった母親が、臨終の席で本人に打ち明けたのでした。

「お前の実の父親はヒトラーなのよ」

「言われてみれば……」と、鏡を見た事でしょうか。当人の心中は、察するに余りあります。

アルファベット表記では「Jean-Marie Loret」。

「Hitler」を追加して、グーグルで画像検索すると、こんな結果となります(→link)。

「Jean-Marie Loret Hitler」画像検索の結果

DNA鑑定とか言い出すまでもありませんわね。

血は争えないと言うか……似なくても良いのに、神様って酷いなぁ。

ジーン・マリーには息子、つまりヒトラーの孫にあたる人物もいました(検索結果にはお孫さんの写真比較もあります)。

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