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ホレーショ・ネルソン/wikipediaより引用

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イギリス 週刊武春

ネルソン提督(英海軍)こそ世界最強! カリスマ性と勇敢さに男も女も惚れてまうやろ~

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最近、提督というのは某ゲームプレイヤーが名乗るような風潮もありますが、本来は海軍の艦隊司令官のことでして。
世界史上、数多いる提督の中で、確実にトップクラスに入るのが英国ホレーショ・ネルソンでしょう。軍人としての腕、勇敢さ等だけでなく、本人のキャラクターも含めたランキングなら1位を獲得しても不思議ではありません。

ナポレオン戦争でフランスにとどめを刺したのが陸のウェリントンならば、海から完封したのがネルソン。
ともすれば史上最強とも称されるネルソンとは、では一体どれほど強かったのか? いかなる人物だったのか?
早速、生い立ちから見て参りましょう。

 

階級の買える陸軍 実力主義の海軍

ホレーショ・ネルソンは1758年、ノーフォークの小さな村で牧師の六男として産まれました。

牧師の家に生まれた男子は、父親から聖職禄を相続できる長男以外は、自分で生計を立てる道を探らねばなりません。
彼は母方叔父のツテを頼り、海軍に入ることにしました。
当時のイギリスは、陸軍が階級を金で買える貴族子弟が占めている一方、海軍の場合は彼のように自活の必要のある中産階級子弟が多く属しており、陸よりも海の方が実力主義といえたのです。

そんな海軍に入隊したのが1770年、ネルソン12歳のときです。
中産階級の子弟は、だいたい現在の中学生くらいで海軍に入り、その多くが士官候補生と呼ばれる階級からスタートします。
ネルソンはこのころから並外れた勇猛さを発揮し、北極探検の際には“毛皮” を父親の土産にするため、上官に止められるまでホッキョクグマを追いまわし、周囲を驚かせました。って、そりゃあ驚きますわなw

勇敢な海軍人として順調に出世したネルソンは、19歳で海尉昇進試験に合格、1779年には僅か21歳で海尉艦長として戦艦の指揮を執ることになります。
一時期、上官に睨まれて不遇の時期を過ごしたものの、その勇猛さ、部下への寛大さは際立っていました。

そして十年後の1789年、母国イギリスの宿敵であるフランスで革命が勃発し、1793年から1815年にかけて、英仏は火花を散らすことになったのです。

この一件により、彼の運命も同時に駆け足で走り始めるのでした。
当時アガメムノン号の艦長であったネルソンは、無謀なまでに勇敢なことで知られ、次のように部下を叱咤激励したと言います。
「フランス人を見たら悪魔と思え!」
そして自ら危険な戦闘へ飛び込んでいくのですから、そりゃあ部下の士気も奮い立つってもんで。

トラファルガー広場には、ネルソン記念柱がそびえ立ち、そこには今も彼の四大海戦を讃えた文字が刻まれております。
では、四大海戦を一つずつ見て参りましょう。

トラファルガー広場のネルソン記念柱

 

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1797年サン・ビセンテ岬の海戦 VSスペイン海軍

ポルトガル沖サン・ビンセンテ岬にて、フランスの同盟国であるスペイン艦隊との戦い。
濃霧の中で遭遇したイギリス海軍は、敵の数を把握しないまま戦うことになります。
霧の中からあらわれた敵の数は、味方のおよそ倍でした。

イギリス軍は数では劣るものの、持ち前の機動力で立ち向かいます。
この海戦のすごいところは、倍ある戦力をひっくり返したことでもありますが、ネルソンの個人的武勇がとてつもなかった点です。

自艦キャプテン号から敵艦サン・ニコラス号に乗り移り、サン・ニコラス号を征圧横断して敵艦サン・ホセ号になだれ込み、艦長を降伏させるという離れ業をやってのけたのです。敵艦を別の敵艦に移るために使用したこの戦法は「ネルソン特許の敵艦乗り込み橋」と呼ばれたとか。

当時、艦長自ら敵艦に斬り込むなんて当たり前だったのか? というと、そんなことはありません。ネルソンの気質と度胸だからやってのけられたことです。

ただしこの勇敢さが裏目に出てしまいます。
同年、テネリフェにてスペイン海軍との戦闘で斬り込み攻撃を行った際は銃弾が右腕に当たり切断、苦い敗北を喫することになりました。ネルソンは1704年のコルシカ島戦闘で砂礫が右目に入り、失明もしております。

彼は隻眼隻腕の提督となったのです。

 

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1798年ナイルの海戦 VSフランス海軍

当時、フランスは若き将軍ナポレオン・ボナパルトがイタリア遠征を成功させ、陸では無敵でした。

東を攻略したフランスは、西の宿敵・イギリスに目を向けます。イギリスを叩くにはドーバー海峡を越えなければいけません。
しかし革命によって貴族が中心であった海軍士官の多数が亡命してしまい、海軍力は低下していました。

正面からイギリス侵攻ができないと考えたナポレオンは、イギリスとその植民地であるインドの間を分断するため、エジプトを攻めることにしました。ネルソン率いる艦隊はナポレオンの乗った艦隊を追うものの、取り逃がしてしまいます。
しかし、ネルソンはあきらめずにナポレオンを追い続け、ついにアブキール湾にて発見!

8月1日、日没前、フランス艦隊は浅瀬に縦列展開していました。彼らは浅瀬を周りこめるとは想定しておらず、またこれから夜になるというのに敢えて攻撃してくるともまったく予想していませんでした。

ところがイギリス艦隊は、この二つをやってのけます。

イギリス艦隊の半分は陸地とフランス艦隊の間に入り込み、もう半分はフランス艦隊を挟み撃ちにして攻撃しました。フランス艦隊は為す術もありません。旗艦のロリアンでは船内火災が発生、火薬庫に引火して大爆発が発生。ナポレオン遠征軍が乗ってきた艦隊は大半が大破するという大勝利でした。

この勝利はまさに歴史的でした。
フランス艦隊戦列艦13、フリゲート4のうち、戦列艦2撃沈、9鹵獲、フリゲート2撃沈。ほぼ壊滅です。
これまでの艦隊戦では船そのものが破壊されることはなく、鹵獲されたり降伏の余地があったりするものですが、今回はまさに殲滅でした。

 

海戦の合間に、理解しがたい夫公認の不倫

ナイルの海戦から堂々凱旋を果たしたネルソンたちイギリス海軍は、寄港先で熱狂的な歓迎を受けました。
ナポレオンは結果的に帰国手段をしばらくの間失う羽目になったわけで、まさに全ヨーロッパ中が「ナポレオンが帰国できなくてメシがうまい!」状態になったわけです。

そのときナポリ王国の社交界には、エマ・ハミルトンというヨーロッパ屈指の美女がいました。
どれほど美人であったかは残された絵画からわかります。

エマ・ハミルトン/wikipediaより引用

豊かな赤毛、白い肌、そしてグラマラスな肉体美を誇るエマは、熱烈にネルソンを歓迎しました。この二人は既に5年前にも一度出会っていましたが、お互い特に印象に残らなかったようです。

それが今や、ネルソンはヨーロッパを救った英雄です。隻眼隻腕となり髪は真っ白、歯はボロボロ。ナイルの戦闘で負った脳しんとう、打撲、左目上の裂傷に苦しんでいました。
そんなネルソンの姿にエマはショックを受けたのですが、同時にときめいてしまいます。隻腕のネルソンは食事で肉すら一人で満足に切ることができません。

「海の上では無敵なのに、陸にあがれば私が側にいなければ食事もできないなんて!」

エマは疲れ切ったネルソンの看病を熱心に行いました……夫の家の中で。
そう、エマはハミルトン卿という親子ほども歳の違う貴族と結婚していたのです。

ここで夫は怒らないのかと思うのが自然でしょうが、彼は「私は年上だし、浮気相手は英雄なんだし、ネルソン提督は素晴らしい方だし」と寛大な態度を取りました。ネルソン自身も「ハミルトン卿は寛大で素晴らしい」とハミルトン卿のよき友となりました。
夫妻と不倫相手の三人は仲良く社交界にも出入りしたというのだから、理解しがたい関係です。

しかもエマは、元ヌードモデルや高級娼婦のような仕事をしていたあやしげな経歴があります。
「アティテュード」というセクシーダンスを得意として人々に披露し好評を博していたのですが、一部の人々にはいかがわしいストリップショーまがいのものに思えたようです。

そんな胡散臭い女とよりにもよってつきあわなくても、しかも糟糠の妻まで捨てて、と社交界に出入りする上流階級の人々は噂しました。
ネルソンとエマはそんな世間の目をものともせず同棲を始め、娘を授かっています。

これは当時の人々にとってもかなり異常な関係でした。
イギリス人は、堅苦しいヴィクトリア朝時代とは違い、わりあいルーズなロマンスも嗜んでいました。
しかし、そうはいっても一応は隠すわけです。

「不倫はまだしも理解できるけど、堂々と寝取られ夫と三人で社交界に出入りとかおかしいでしょ……堂々とし過ぎ。ネルソンって戦歴は凄いけど、人間としてちょっとおかしいよね」
そんな風に言われることとなったのでした。

 

1801年 コペンハーゲンの海戦 VSデンマーク=ノルウェー海軍

フランス革命戦争から熾烈さを増す英仏関係。
イギリスはついにフランスと取引している中立国すら攻撃対象とし始めます。

余談ですがこの影響は1808年には日本にまで及び、フェートン号事件が発生しています。長崎奉行からしてみれば突然イギリス軍艦が襲って来たこの事件は、相手から見るとナポレオンの弟が君主であったオランダと取引をしている日本を敵とみなしたのです。理不尽なとばっちりですね。

そんな中、ロシアを中心としプロイセン、デンマーク、スウェーデンからなる「武装中立同盟」は、フランスと物資を取引しており、イギリスにとっては脅威でした。
そこでデンマーク叩くべし、ということになったわけです。

ロシア艦隊が南下してこないまだ早春の4月2日、戦いは始まります。
デンマークも無策ではなく強力な砲台で防備を固めました。地理的に有利なポイントも全て把握しており、それに対してイギリス海軍は浅瀬を測量しながら進まなければならないため不利でした。座礁して戦いに参加出来ない戦艦もありました。

激戦の最中、艦隊を率いていたパーカーはあまりの戦闘の激しさにこう考えます。

「このままではいかにネルソンといえど戦い抜けないかもしれない。しかし既に全力で戦えるように命令を出した以上、彼は従うまい」

パーカーは後退するよう信号旗を掲げました。ネルソンは信号を受信し応答したものの、それを味方には伝えませんでした。
そしてこう言ったのです。

「おかしいぞ、信号が見えんな。私は時々目が見えなくなるんだが、本当に今回は見えないぞ!」

ネルソンはそう言って、見えない右目に望遠鏡を当ててブリティッシュージョークをかましました。
後退信号を無視して奮闘を続けたネルソンとイギリス艦隊を前に、やがて敵は静まりかえってゆきます。
イギリス海軍の大勝利でした。

 

1805年 トラファルガーの海戦 VSフランス・スペイン海軍

1802年、英仏間はつかの間の平和となる「アミアンの和約」を結びます。
しかしこの和約は結局翌年破棄され戦闘状態に戻ります。

ナポレオンは1804年、皇帝として即位。彼は挫折していたイギリス侵攻を再度企画するようになります。
イギリス国民は、泣き止まない赤ん坊を寝かしつけるのにも「かわいい坊や、寝付かないとこわ~いナポレオンが来るよ」と歌うほど、フランスの侵攻を恐れるようになります。

数で圧倒すればイギリス海軍の目をかいくぐって上陸できるのではないか?
フランス海軍が足りないのであれば同盟国スペインの艦隊で補えばよいのではないか?
ナポレオンはそう考えます。

何とかイギリス海軍を欺きたいフランス海軍と、何としてもフランス海軍を封じ込めたいイギリス海軍。海上の激しい命がけの追いかけっ子の末、1805年秋、ヴィルヌーヴが率いるフランス艦隊は、スペインのカディス港に停泊します。急ごしらえの仏西連合艦隊のチームワークは悪く、しかもカディスに長居し過ぎていて士気は低下していました。

10月21日朝、ネルソンは艦隊の船長たちを集めてこう宣言しました。
「今回の戦いにおいて私はある戦術を考えた。その作戦の名はネルソン・タッチという」

艦長たちは「ネルソン・タッチ」という言葉を聞くだけで電気ショックを与えられたかのように驚き、ある者は泣き出したと伝わります。
そのネルソン・タッチとは、敵の戦艦が並んでいるところに横から二列に別れた味方が突っ込み、敵艦隊を三分割して乱戦に持ち込むというものでした。

ネルソンタッチを表した図 by Pinpin/wikipediaより引用

戦列を分断して乱戦に持ち込めば、三分に一度しか砲撃できない連合艦隊に対して、一分三十秒ごとに砲撃し、操船技術そのものが高いイギリス海軍が有利になります。
シンプルかつ斬新な戦術でした。

しかしこの戦術は、先頭となった戦艦が敵から集中的に砲撃を受けてしまうリスクもありました。この戦いの死傷率をみてみると、最後尾は無傷であるのに対してネルソンの乗っていたビクトリー号はじめ、先頭部にいた戦艦は20パーセント程度となり、それなりの損害を受けています。
連合艦隊は、高速航行中の敵に対して昔ながらの海賊式砲撃、つまり航行を止めるために索具装置を狙うという戦法を取りました。この戦術は積み荷に損害を与えないというメリットはあるものの、狙いを付けるのが難しく、イギリス海軍に効果的なダメージを与えることはできませんでした。

ほぼ正午に戦闘は始まります。この時ネルソンは信号旗を掲げました。
「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」
この信号文は名文として歴史に残ります。

「そんなこと言われなくてもわかっとるわい」
「もっと具体的な指示を出せばいいのに」
そんな不満を抱いた者もいたと言います。しかし、大多数の者たちはこの言葉に奮い立ったのでした。
現在もネルソンの乗船していたビクトリー号は記念艦として保存されており、そこにはこの信号旗がひるがえっています(関連サイト)。

この信号旗はただの命令ではありませんでした。
ネルソンの恐ろしいところは、彼の闘志が他の者にまで伝染するところです。
「勇将の下に弱卒なし」の言葉通り、彼の言葉に奮起した者たちは上は艦長から下は水兵まで、発奮して闘志の塊と化すのです。

ネルソンの参加した戦闘ではネルソン一人だけが強いのではなく、どの艦長もネルソン並に強くなる……敵からすればたまったものではありませんが、それがイギリス海軍強さの秘密でした。
「ネルソン・タッチ」は艦長の指揮能力、将兵の優れた操船技術がなければなしえない作戦です。
この信号旗で各人に闘志を注入し、イギリス海軍は戦闘に突入しました。

激しい戦闘開始から一時間後、両者は入り乱れての接近戦となりました。

戦列は寸断され、両軍の船は各自の判断で戦うことになりました。ネルソンの狙い通り、こうなれば技術と闘志で上回るイギリス海軍が圧倒的有利となります。

ネルソンの乗船するビクトリー号は、大混戦の最中にありました。銃弾が飛び交う中、ネルソンは甲板上で指揮を続けていました。
彼は勲章のついた華やかで目立つ格好をしており、あまりに目立つから危険であるとも指摘されていました。
それでもネルソンは敢えて華やかな格好で指揮をし、死ぬときもそうありたいと願い、勲章を隠すことはありませんでした。

フランス艦ルドゥタブル号の艦長リュカは、操船技術では劣る以上切り込みで一矢報いようと、多数の水兵をマストに登らせ、マスケット銃を装備させていました。その水兵の放った銃弾が、ネルソンの胸を撃ち抜きました。
この一撃は、狙撃なのか、まぐれ当たりなのか、乱戦で跳弾がたまたま当たったのか、結論は出ていません。
当時のマスケットの精度は極めて低いため、ネルソンが胸に輝く勲章のために的となってしまったかどうか、はっきりとしてはいません。

銃撃を受けたネルソンは「義務を果たした」と言い残し、その激動過ぎる47年の生涯に終わりを告げます。

イギリス海軍では戦死者の遺骸は水葬にしていましたが、彼の場合はコニャックに漬けられ母国イギリスへと運ばれました。
これがコニャックではなく、当時水兵に支給されていたラム酒に漬けられていたと誤伝され、ラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれました。
このネルソンの遺骸が浸かったコニャックを、水兵たちは「その勇敢さにあやかりたい」とこっそりと飲んでいたそうで、中身はかなり減っていたそうです。
現在も「ネルソンの血」という名前を冠したラム酒やビールがイギリスでは売られています。

ネルソンの死後も死闘は続きました。
戦闘終了後は大嵐に襲われるという困難も乗り越え、イギリス海軍は大勝利をおさめました。
イギリス海軍の死者458、負傷者1208、合計1666、拿捕船舶0に対して、フランス軍死者2218、負傷者1155、捕虜およそ4000、船舶損害10、スペイン軍死者1025、負傷者1383、捕虜およそ4000、拿捕船舶11。損害を比較すると圧倒的です。
フランス軍は艦隊を指揮していたヴィルヌーヴすら捕虜になるという惨敗ぶりでした。

 

そして伝説へ

イル、そしてトラファルガーで艦隊を失ったナポレオンは、ついにイギリス侵攻を断念し、制海権はイギリスが握ることになりました。
ヨーロッパ大陸の国々が消耗している間、イギリス陸軍は温存され、本土も戦場になることから逃れました。

日が沈まぬ国と呼ばれた大英帝国の繁栄も、もしもネルソンがいなかったらば実現しなかったかもしれません。

歴史的大勝利をイギリス国民にもたらしたネルソンの死は、一般大衆にまで深い悲しみでもって受け止められました。
ネルソンの遺骸はナイルの海戦で彼が爆発炎上させた旗艦ロリアンのマストで作られた棺におさめられ、その葬儀は厳かで盛大なものでした。人々はこぞってロンドンに集まり、葬儀を見物するためのチケットは飛ぶように売れてゆきました。
ネルソンの死は悲劇的ではあるものの、祖国を救った決戦で散るというドラマチックなものであり、英雄伝説最後の頁を飾るにふさわしいものでした。

華やかな葬儀の影で、ネルソンの恋人であるエマ・ハミルトンは困窮に苦しむことになります。
夫の遺産もなければ、ネルソンの年金も給付されない彼女は、借金苦からフランスに逃れ、1814年に落魄し亡くなりました。

ホレーショ・ネルソン23歳/wikipediaより引用

時代がくだるにつれ、ネルソンは神格化され、イギリスの発展とともにあるべき国家的な英雄像として定着してゆきます。

彼は部下にも寛大でした。社交界が眉をひそめたエマとの情事も、庶民にとっては面白おかしいゴシップでしかありません。彼の名声を損なうほどのものではありませんでした。
社交界のお偉方だけではなく、庶民にとっても愛すべき英雄であったからこそ、彼の名声は高まるばかりであったのです。

ネルソンにはずば抜けた勇敢さや才能だけではなく、スター性も備わっていました。
見えない目に望遠鏡を当てて「見えない!」と言い張るところ、「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」という信号旗等、ここぞというところで気が利いたことを言う才能がありました。

自分をどうすれば魅力的な英雄に見せるかという自己プロデュースが出来、名言を残せる機転に恵まれていたのです。
もしもネルソンが現代に生きていたら、ツイッターアカウントのフォロワー数は記録的なものになっていたことでしょうね。

中流階級の豊かではない家に生まれ、才覚とカリスマ性で頭角を示し、大英帝国発展の基礎を作ったネルソン。

彼は今日もロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン柱の上から、イギリス国民を見守っています。

小檜山 青/記

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