ネルソン提督

ネルソン提督/wikipediaより引用

イギリス

ネルソン提督の英海軍は世界最強~そのカリスマに男も女も惚れてまう

提督とは?

某ゲームプレイヤーではなく、本来は海軍の艦隊司令官のこと。

世界史上、数多いる提督の中で、確実にトップクラスに入るのが英海軍のホレーショ・ネルソン提督でしょう。

軍人としての腕、勇敢さ等だけでなく、本人のキャラクターも含めたランキングなら1位を獲得しても不思議ではありません。

ナポレオン戦争でフランスにとどめを刺したのが陸のウェリントンならば、海で完封したのがネルソン。

ともすれば史上最強とも称されるネルソンとは一体どれほど強かったのか?

いかなる人物だったのか?

1805年10月21日が命日であるネルソン、その生い立ちから振り返ってみましょう。

 


階級の買える陸軍 実力主義の海軍

ホレーショ・ネルソンは1758年、ノーフォークの小さな村で牧師の六男として産まれました。

牧師の家に生まれた男子は、父親から聖職禄を相続できる長男以外は、自分で生計を立てる道を探らねばなりません。

彼は母方叔父のツテを頼り、海軍に入ることにしました。

当時のイギリスは、陸軍が階級を金で買える貴族子弟が占めている一方、海軍の場合は彼のように自活の必要のある中産階級子弟が多く属しており、陸よりも海の方が実力主義といえたのです。

そんな海軍に入隊したのが1770年、ネルソン12歳のときです。

中産階級の子弟は、だいたい現在の中学生くらいで海軍に入り、その多くが士官候補生と呼ばれる階級からスタートします。

ネルソンはこのころから並外れた勇猛さを発揮し、北極探検の際には“毛皮” を父親の土産にするため、上官に止められるまでホッキョクグマを追いまわし、周囲を驚かせました。って、そりゃあ驚きますわなw

ホレーショ・ネルソン23歳/wikipediaより引用

 


宿敵フランスで革命が勃発

勇敢な海軍人として順調に出世したネルソンは、19歳で海尉昇進試験に合格、1779年には僅か21歳で海尉艦長として戦艦の指揮を執ることになります。

一時期、上官に睨まれて不遇の時期を過ごしたものの、その勇猛さ、部下への寛大さは際立っていました。

そして十年後の1789年、母国イギリスの宿敵であるフランスで革命が勃発し、1793年から1815年にかけて、英仏は火花を散らすことになったのです。

この一件により、彼の運命も同時に駆け足で走り始めるのでした。

当時アガメムノン号の艦長であったネルソンは、無謀なまでに勇敢なことで知られ、次のように部下を叱咤激励したと言います。

「フランス人を見たら悪魔と思え!」

そして自ら危険な戦闘へ飛び込んでいくのですから、そりゃあ部下の士気も奮い立つってもんで。

トラファルガー広場には、ネルソン記念柱がそびえ立ち、そこには今も彼の四大海戦を讃えた文字が刻まれております。

トラファルガー広場のネルソン記念柱

では、四大海戦を一つずつ見て参りましょう。

 


1797年サン・ビセンテ岬の海戦

ポルトガル沖サン・ビンセンテ岬にて、フランスの同盟国であるスペイン艦隊との戦い。

濃霧の中で遭遇したイギリス海軍は、敵の数を把握しないまま戦うことになります。

霧の中からあらわれた敵の数は、味方のおよそ倍でした。

イギリス軍は数では劣るものの、持ち前の機動力で立ち向かいます。

この海戦のすごいところは、倍ある戦力をひっくり返したことでもありますが、ネルソンの個人的武勇がとてつもなかった点です。

自艦キャプテン号から敵艦サン・ニコラス号に乗り移り、サン・ニコラス号を征圧横断して敵艦サン・ホセ号になだれ込み、艦長を降伏させるという離れ業をやってのけたのです。

敵艦を別の敵艦に移るために使用したこの戦法は「ネルソン特許の敵艦乗り込み橋」と呼ばれたとか。

当時、艦長自ら敵艦に斬り込むなんて当たり前だったのか?

というと、そんなことはありません。ネルソンの気質と度胸だからやってのけられたことです。

ただしこの勇敢さが裏目に出てしまいます。

同年、テネリフェにてスペイン海軍との戦闘で斬り込み攻撃を行った際は銃弾が右腕に当たり切断、苦い敗北を喫することになりました。

ネルソンは1704年のコルシカ島戦闘で砂礫が右目に入り、失明もしております。

彼は隻眼隻腕の提督となったのです。

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