ネルソン提督

ネルソン提督/wikipediaより引用

イギリス

ネルソン提督の英海軍は世界最強~そのカリスマに男も女も惚れてまう

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1798年ナイルの海戦

当時、フランスは若き将軍ナポレオン・ボナパルトがイタリア遠征を成功させ、陸では無敵でした。

東を攻略したフランスは、西の宿敵・イギリスに目を向けます。イギリスを叩くにはドーバー海峡を越えなければいけません。

しかし革命によって貴族が中心であった海軍士官の多数が亡命してしまい、海軍力は低下していました。

正面からイギリス侵攻ができないと考えたナポレオンは、イギリスとその植民地であるインドの間を分断するため、エジプトを攻めることにしました。

ネルソン率いる艦隊はナポレオンの乗った艦隊を追うものの、取り逃がしてしまいます。

しかし、ネルソンはあきらめずにナポレオンを追い続け、ついにアブキール湾にて発見!

8月1日、日没前、フランス艦隊は浅瀬に縦列展開していました。彼らは浅瀬を周りこめるとは想定しておらず、またこれから夜になるというのに敢えて攻撃してくるともまったく予想していませんでした。

ところがイギリス艦隊は、この二つをやってのけます。

イギリス艦隊の半分は陸地とフランス艦隊の間に入り込み、もう半分はフランス艦隊を挟み撃ちにして攻撃しました。

フランス艦隊は為す術もありません。旗艦のロリアンでは船内火災が発生、火薬庫に引火して大爆発が発生。ナポレオン遠征軍が乗ってきた艦隊は大半が大破するという大勝利でした。

この勝利はまさに歴史的でした。

フランス艦隊戦列艦13、フリゲート4のうち、戦列艦2撃沈、9鹵獲、フリゲート2撃沈。

ほぼ壊滅です。

これまでの艦隊戦では船そのものが破壊されることはなく、鹵獲されたり降伏の余地があったりするものですが、今回はまさに殲滅でした。

 

海戦の合間に、理解しがたい夫公認の不倫

ナイルの海戦から堂々凱旋を果たしたネルソンたちイギリス海軍は、寄港先で熱狂的な歓迎を受けました。

ナポレオンは結果的に帰国手段をしばらくの間失う羽目になったわけで、まさに全ヨーロッパ中が「ナポレオンが帰国できなくてメシがうまい!」状態になったわけです。

そのときナポリ王国の社交界には、エマ・ハミルトンというヨーロッパ屈指の美女がいました。

どれほど美人であったかは残された絵画からわかります。

エマ・ハミルトン/wikipediaより引用

豊かな赤毛、白い肌、そしてグラマラスな肉体美を誇るエマは、熱烈にネルソンを歓迎しました。

この二人は既に5年前にも一度出会っていましたが、お互い特に印象に残らなかったようです。

それが今や、ネルソンはヨーロッパを救った英雄です。

隻眼隻腕となり髪は真っ白、歯はボロボロ。ナイルの戦闘で負った脳しんとう、打撲、左目上の裂傷に苦しんでいました。

そんなネルソンの姿にエマはショックを受けたのですが、同時にときめいてしまいます。

隻腕のネルソンは、食事の肉を一人で満足に切ることすらできない。

「海の上では無敵なのに、陸にあがれば私が側にいなければ食事もできないなんて!」

エマは疲れ切ったネルソンの看病を熱心に行いました……夫の家の中で。

そう、エマはハミルトン卿という親子ほども歳の違う貴族と結婚していたのです。

なぜ、その夫は怒らないのか?と思うのが自然でしょうが、彼は「私は年上だし、浮気相手は英雄なんだし、ネルソン提督は素晴らしい方だし」と寛大な態度を取りました。

ネルソン自身も「ハミルトン卿は寛大で素晴らしい」とハミルトン卿のよき友となりました。

夫妻と不倫相手の三人は仲良く社交界にも出入りし始めたというのだから、一般的には理解しがたい関係でしょう。

しかもエマは、元ヌードモデルや高級娼婦のような仕事をしていたあやしげな経歴があります。

「アティテュード」というセクシーダンスを得意として人々に披露し好評を博していたのですが、一部の人々にはいかがわしいストリップショーまがいのものに思えたようです。

そんな胡散臭い女とよりにもよってつきあわなくても、しかも糟糠の妻まで捨てて……と、社交界に出入りする上流階級の人々は噂しました。

ネルソンとエマはそんな世間の目をものともせず同棲を始め、娘まで授かっています。

さすがにこれは、当時の人々にとってもかなり異常な関係でした。

イギリス人は、堅苦しいヴィクトリア朝時代とは違い、わりあいルーズなロマンスも嗜んでいました。

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しかし、そうはいっても一応は隠すわけです。

「不倫はまだしも理解できるけど、堂々と寝取られ夫と三人で社交界に出入りとかおかしいでしょ……堂々とし過ぎ。ネルソンって戦歴は凄いけど、人間としてちょっとおかしいよね」

そんな風に言われることとなったのでした。

 

1801年 コペンハーゲンの海戦

フランス革命戦争から熾烈さを増す英仏関係。

イギリスはついにフランスと取引している中立国すら攻撃対象とし始めます。

余談ですがこの影響は1808年には日本にまで及び、フェートン号事件が発生しています。

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長崎奉行からしてみれば突然イギリス軍艦が襲って来たこの事件は、相手から見るとナポレオンの弟が君主であったオランダと取引をしている日本を敵とみなしたのです。

理不尽なとばっちりですね。

そんな中、ロシアを中心としプロイセン、デンマーク、スウェーデンからなる「武装中立同盟」は、フランスと物資を取引しており、イギリスにとっては脅威でした。

そこでデンマーク叩くべし、ということになったわけです。

ロシア艦隊が南下して来ないまだ早春の4月2日、戦いは始まります。

デンマークも無策ではなく強力な砲台で防備を固めました。

地理的に有利なポイントも全て把握しており、それに対してイギリス海軍は浅瀬を測量しながら進まなければならないため不利な状況。座礁して戦いに参加出来ない戦艦もありました。

激戦の最中、艦隊を率いていたパーカーはあまりの戦闘の激しさにこう考えます。

「このままではいかにネルソンといえど戦い抜けないかもしれない。しかし既に全力で戦えるように命令を出した以上、彼は従うまい」

パーカーは後退するよう信号旗を掲げました。

ネルソンは信号を受信し応答したものの、それを味方には伝えませんでした。

そしてこう言ったのです。

「おかしいぞ、信号が見えんな。私は時々目が見えなくなるんだが、本当に今回は見えないぞ!」

ネルソンはそう言って、見えない右目に望遠鏡を当ててブリティッシュージョークをかましました。

後退信号を無視して奮闘を続けたネルソンとイギリス艦隊を前に、やがて敵は静まりかえってゆきます。

イギリス海軍の大勝利でした。

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