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【ネルソン提督】
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1805年 トラファルガーの海戦
1802年、英仏間はつかの間の平和となる「アミアンの和約」を結びます。
しかしこの和約は結局、翌年に破棄され戦闘状態に戻ります。
ナポレオンは1804年、皇帝として即位。
彼は挫折していたイギリス侵攻を再度企画するようになるのでした。
イギリス国民は、泣き止まない赤ん坊を寝かしつけるのにも「かわいい坊や、寝付かないとこわ~いナポレオンが来るよ」と歌うほど、フランスの侵攻を恐れるようになります。
数で圧倒すればイギリス海軍の目をかいくぐって上陸できるのではないか?
フランス海軍が足りないのであれば同盟国スペインの艦隊で補えばよいのではないか?
ナポレオンはそう考えます。
何とかイギリス海軍を欺きたいフランス海軍と、何としてもフランス海軍を封じ込めたいイギリス海軍。
海上の激しい命がけの追いかけっ子の末、1805年秋、ヴィルヌーヴが率いるフランス艦隊は、スペインのカディス港に停泊します。
急ごしらえの仏西連合艦隊のチームワークは悪く、しかもカディスに長居し過ぎていて士気は低下していました。
10月21日朝、ネルソンは艦隊の船長たちを集めてこう宣言しました。
「今回の戦いにおいて私はある戦術を考えた。その作戦の名はネルソン・タッチという」
艦長たちは「ネルソン・タッチ」という言葉を聞くだけで電気ショックを与えられたかのように驚き、ある者は泣き出したと伝わります。
そのネルソン・タッチとは、敵の戦艦が並んでいるところに横から二列に別れた味方が突っ込み、敵艦隊を三分割して乱戦に持ち込むというものでした。
戦列を分断して乱戦に持ち込めば、三分に一度しか砲撃できない連合艦隊に対して、一分三十秒ごとに砲撃し、操船技術そのものが高いイギリス海軍が有利になります。
シンプルかつ斬新な戦術でした。
しかしこの戦術は、先頭となった戦艦が敵から集中的に砲撃を受けてしまうリスクもありました。
死傷率をみてみると、最後尾は無傷であるのに対してネルソンの乗っていたビクトリー号はじめ、先頭部にいた戦艦は20パーセント程度となり、それなりの損害を受けています。
連合艦隊は、高速航行中の敵に対して昔ながらの海賊式砲撃、つまり航行を止めるために索具装置を狙うという戦法を取っています。
この戦術は積み荷に損害を与えないというメリットはあるものの、狙いを付けるのが難しく、イギリス海軍に効果的なダメージを与えることはできませんでした。
ほぼ正午、戦闘スタート。
この時ネルソンは信号旗を掲げました。
「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」
この信号文は名文として歴史に残ります。
「そんなこと言われなくてもわかっとるわい」
「もっと具体的な指示を出せばいいのに」
そんな不満を抱いた者もいたと言います。
しかし、大多数の者たちはこの言葉に奮い立ったのでした。
現在もネルソンの乗船していたビクトリー号は記念艦として保存されており、そこにはこの信号旗がひるがえっています(関連サイト)。
この信号旗はただの命令ではありませんでした。
ネルソンの恐ろしいところは、彼の闘志が他の者にまで伝染するところです。
「勇将の下に弱卒なし」
そんな言葉通り、彼の言葉に奮起した者たちは上は艦長から下は水兵まで、発奮して闘志の塊と化すのです。
ネルソンの参加した戦闘ではネルソン一人だけが強いのではなく、どの艦長もネルソン並に強くなる……敵からすればたまったものではありませんが、それがイギリス海軍強さの秘密でした。
「ネルソン・タッチ」は艦長の指揮能力、将兵の優れた操船技術がなければなしえない作戦です。
この信号旗で各人に闘志を注入し、イギリス海軍は戦闘に突入しました。
激しい戦闘開始から一時間後、両者は入り乱れての接近戦へ。戦列は寸断され、両軍の船は各自の判断で戦うことになりました。
ネルソンの狙い通り、こうなれば技術と闘志で上回るイギリス海軍が圧倒的有利となります。
ネルソンの乗船するビクトリー号は、大混戦の最中にありました。
銃弾が飛び交う中、ネルソンは甲板上で指揮を続けていました。
彼は勲章のついた華やかで目立つ格好をしており、あまりに目立つから危険であるとも指摘されています。
それでもネルソンは敢えて華やかな格好で指揮をし、死ぬときもそうありたいと願い、勲章を隠すことはありませんでした。
フランス艦ルドゥタブル号の艦長リュカは、操船技術では劣る以上切り込みで一矢報いようと、多数の水兵をマストに登らせ、マスケット銃を装備させていました。
その水兵の放った銃弾が、ネルソンの胸を撃ち抜きました。
この一撃は、狙撃なのか、まぐれ当たりなのか、はたまた乱戦で跳弾が不運にも当たったのか、結論は出ていません。
当時のマスケットの精度は極めて低いため、ネルソンが胸に輝く勲章のために的となってしまったかどうか、はっきりとしてはいません。
銃撃を受けたネルソンは「義務を果たした」と言い残し、その激動過ぎる47年の生涯に終わりを告げます。
イギリス海軍では戦死者の遺骸は水葬にしていましたが、彼の場合はコニャックに漬けられ母国イギリスへと運ばれました。
これがコニャックではなく、当時、水兵に支給されていたラム酒に漬けられていたと誤伝され、ラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれました。
このネルソンの遺骸が浸かったコニャックを、水兵たちは「その勇敢さにあやかりたい」とこっそりと飲んでいたそうで、中身はかなり減っていたそうです。
現在も「ネルソンの血」という名前を冠したラム酒やビールがイギリスでは売られています。
ネルソンの死後も死闘は続きました。
戦闘終了後は大嵐に襲われるという困難も乗り越え、イギリス海軍は大勝利。
・イギリス海軍の死者458、負傷者1208、合計1666、拿捕船舶0
・フランス軍死者2218、負傷者1155、捕虜およそ4000、船舶損害10
・スペイン軍死者1025、負傷者1383、捕虜およそ4000、拿捕船舶11
損害を比較すると圧倒的ですね。
フランス軍は艦隊を指揮していたヴィルヌーヴすら捕虜になるという惨敗ぶりでした。
そして伝説へ
ナイル、そしてトラファルガーで艦隊を失ったナポレオンは、ついにイギリス侵攻を断念。
制海権はイギリスが握ることになりました。
ヨーロッパ大陸の国々が消耗している間、イギリス陸軍は温存され、本土も戦場になることから逃れました。
日が沈まぬ国と呼ばれた大英帝国の繁栄も、もしもネルソンがいなかったらば実現しなかったかもしれません。
歴史的大勝利をイギリス国民にもたらした彼の死は、一般大衆にまで深い悲しみでもって受け止められました。
ネルソンの遺骸はナイルの海戦で彼が爆発炎上させた旗艦ロリアンのマストで作られた棺におさめられ、その葬儀は厳かで盛大そのもの。
人々はこぞってロンドンに集まり、葬儀を見物するためのチケットは飛ぶように売れてゆきます。
ネルソンの死は悲劇的ではあるものの、祖国を救った決戦で散るというドラマチックなものであり、英雄伝説最後の頁を飾るにふさわしいものでした。
華やかな葬儀の影で、ネルソンの恋人であるエマ・ハミルトンは困窮に苦しむことになります。
夫の遺産もなければ、ネルソンの年金も給付されない彼女は、借金苦からフランスに逃れ、1814年に落魄し亡くなりました。
時代がくだるにつれ、ネルソンは神格化され、イギリスの発展とともにあるべき国家的な英雄像として定着してゆきます。
彼は部下にも寛大でした。
社交界が眉をひそめたエマとの情事も、庶民にとっては面白おかしいゴシップでしかありません。
しかし彼の名声を損なうほどのものではない。
社交界のお偉方だけではなく、庶民にとっても愛すべき英雄であったからこそ、名声は高まるばかりだったのです。
ネルソンにはずば抜けた勇敢さや才能だけではなく、スター性も備わっていました。
見えない目に望遠鏡を当てて「見えない!」と言い張るところ、「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」という信号旗等、ここぞというところで気が利いたことを言う才能がありました。
自分をどうすれば魅力的な英雄に見せるか。
そんな自己プロデュースを続けた結果、名言を残せる機転に恵まれます。
もしもネルソンが現代に生きていたら、ツイッターアカウントのフォロワー数は記録的なものになっていたことでしょう。
中流階級の豊かではない家に生まれ、才覚とカリスマ性で頭角を示し、大英帝国発展の基礎を作ったネルソン。
彼は今日もロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン柱の上から、イギリス国民を見守っています。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
ロバート・サウジー/増田義郎/山本史郎『ネルソン提督伝 上』(→amazon)
ロバート・サウジー/増田義郎/山本史郎『ネルソン提督伝 下』(→amazon)