父の斎藤義龍/wikipediaより引用

斎藤家 麒麟がくる特集 週刊武春

斎藤義龍はなぜ父の道三を殺し、信長の暗殺を試みたか?マムシの息子その生涯

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信長の前半生において、最も困難だった美濃攻略。
立ちはだかったのは斎藤義龍という人物です。

本来、美濃は、織田信長の舅である斎藤道三が治めており、信長には友好的でしたが、道三の隠居に伴う代替わりで混乱が起き、道三の長男・義龍が、その座を強引に奪い取ったのです。

しかも、その過程で道三を死に追いやる――という武田信玄もビックリな展開となっており、もしかしたらそのせいで義龍については悪い印象をお持ちの方も多いかもしれません。
なんせ「父殺し」ですからね。

しかし、ことはそう単純でもありません。
いったい斎藤義龍とはどんな人物だったのか?

史実に基づいて、その生涯を追ってみましょう。

 

頼芸から道三に譲られた女性 それが義龍の母

斎藤義龍は大永七年(1527年)、斎藤道三と深芳野(みよしの)の間に生まれました。

この深芳野が、なかなか厄介な存在でありまして、元々は、土岐頼芸(とき よりあき)の側室だった女性であります。

土岐頼芸は、斎藤道三の主君。
つまり彼女は、上司から部下へと譲られたんですね。

女性をモノ扱いするみたいで眉をひそめる方もおられるかもしれませんが、当時の価値観ですのでいったん脇へ置いておき、先へと進みましょう。

ともかくここで大事なことは、この斎藤義龍が、他にいた道三の息子たちとは【異母兄弟】だったということです。

【戦国時代+武家+異母兄弟】となると、もうトラブルの予感しかしませんね。

実は弟たちと同母兄弟の可能性もありますが、2019年時点では不確定ですので、本稿では、異母兄弟と仮定して話を進めましょう。

 

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頼芸・父親説は江戸時代末期のお話

斎藤義龍の幼少期は、例によってナゾです。

天文五年(1536年)に元服を済ませ、「新九郎」と名乗るようになったとされますが、その他はほぼ不明。
元服時の年齢が10才になりますので、一人前の武将として、あるいは道三の後継ぎとして、現場で働くようになるのはもっと後でしょう。

話題になるのは、もっぱら成長後のこと。
真っ先に浮かんでくるエピソードがコチラです。

◆母・深芳野は、頼芸の子供を身ごもった状態で道三に嫁いだ
◆だから義龍は、本当は道三の子でなく、頼芸の子である
◆義龍本人がそれを知ったため、父の敵討ちとして道三に背いた

実はこちらのお話、江戸時代末期になって流布されたもので、内容はかなり怪しいです。
当時の義龍は「道三の庶長子(側室の息子で長男)」という立ち位置であり、それ以上でも以下でもなかったでしょう。

天文十七年(1548年)、道三が稲葉山城から鷺山城へ移り、この時点で道三が隠居すると、ここから義龍の動きがはっきりわかるようになってきます。
おそらくや義龍に家督を譲ったからであります。

ただし「道三は隠居していない」とする説もあり、少なくとも実権は手放していないため、二重政権に近い状況ともいえます。

話がキナ臭くなってくるのは、このあたりからのことでした。

 

なぜ親子は対立したのか?

キナ臭い、とは他でもありません。

道三が義龍のことを
「あいつはダメだ。弟たちのほうがまだマシ」
と冷遇するようになった……というのです。

斎藤道三/wikipediaより引用

後に義龍が父の道三を死に追いやる――そう考えると十分に納得できる話ですが、道三と義龍が対立するようになった決定的な証拠もありません。

わかる範疇で、当時の状況を振り返ってみましょう。

◆義龍が側室生まれだから

義龍には数人の弟がおり、ほとんどが生年不明でした。

末弟の利治が1541年生まれという説があるので、その間の弟は、義龍本人が生まれた翌1528年~1541年の間の生まれになりますね。

また、道三の次男・孫四郎と、三男・喜平次の母親は、道三の正室・小見の方という説があります。
彼女が道三に嫁いだのが天文元年(1532年)ですので、小見の方が母親ならば、孫四郎は早くて1533年生まれ、喜平次はその後になります。

要は、1527年かつ側室生まれの義龍は【年長だ】という武器しかなかったのです。

どこの家でも、大義名分や血筋は非常に重要。
側室生まれの息子よりも、正室生まれの息子に跡を継がせたがります。

当時の価値観を考えれば致し方ないことであり、義龍としても歯がゆかったでしょう。

実際、織田信長も長男ではありません。
異母兄の織田信広がおりましたが、織田家の家督は正室生まれの信長に譲られました。

つまり、義龍以外の跡取りが誕生しても何ら不思議はなかったのです。

◆美濃の武士から見て、義龍のほうが魅力的だったから

今日知られるようになってきたのですが、道三は一代で大名にのし上がったワケではありません。
父・長井新左衛門尉との二代がかりで、美濃を国盗りした人という見方が有力になってます。

その辺の経緯は以下の記事で触れていますので、気になる方はご覧ください。

斎藤道三64年の生涯スッキリ解説!最期は息子に殺されたマムシの一生

美濃の統一までに、道三が何をしたか?

長井氏を実質的に乗っ取ったり。
美濃守護だった土岐氏を追い出したり。

戦乱に荒れていた当時の中でも、かなりの悪業を実行しており、それだけに美濃の中には道三に対して恨みを抱く人もたくさんおりました。

しかし、知略に長けた道三と真正面から戦をするのは、下策も下策。
少しでも望みがあるのは、代替わりです。

実際、義龍が道三と本格的に対立した後、多くの美濃の武士が義龍に味方しました。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/Wikipediaより引用

おそらく道三と義龍の二重政権状態になった時期から、
「マムシにいつまでも好き放題されるのはごめんだ! まだ若い義龍殿のほうが話がわかる」
と考えていた人が、義龍についたのでしょう。

そしてその数が道三の想像以上に多かったのでしょう。
こうした要因が重なって、義龍と道三は親子でありながら敵対することになったのではないでしょうか。

 

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江戸時代の後期に作られた話ならば

ただし……。
そうなると、今度は別の疑問が生まれてきます。

なぜ義龍が
「土岐氏の血を引いている(道三の子ではなく土岐頼芸の子である)」
なんて話が江戸時代になって出てきたのか?

実は江戸時代の後期になると、大名の中で「隠居後に復帰した」という例がいくつか見られるようになります。
もちろんケースバイケースですが、江戸時代では隠居した大名の復帰や、実質二重政権になることが大した問題ではなかったのです。

そういう価値観の人が、義龍と道三の話を見た場合、どう思うか?

「ご隠居様が政治をしたって問題ないのに、どうしてこの斎藤親子は対立した?
きっと何か大層な理由があるのだろう。
例えば義龍が、実は道三じゃなくて頼芸の息子だったら?
父の敵討ちになるな!
おぉ、それだとスッキリする!!」

そんな風に想像を膨らませてしまうことも、ありえなくはなさそうです。

また、江戸時代には講談の類が非常に大きな娯楽でした。

中には歴史的事実にかなりの脚色をし、それが観客に大ウケしたために、創作物が事実のように思われているケースもままあります。
ちょうど現代人が、歴史小説や時代小説、あるいはドラマや映画、ゲームのストーリーをそのまま「これが本当にあった出来事なんだ」と信じ込んでしまうように。

「義龍が本当は頼芸の息子」という話は、そういうものだったのかもしれません。

さて、そろそろ本題に戻りましょう。

 

まずは兄弟を殺して挙兵 戦いは一方的なものだった

義龍を疎んじるようになった道三。
いよいよ別の息子・孫四郎を正式な跡取りにし、さらに喜平次に「一色右兵衛大輔」と名乗らせ、義龍との扱いの差を明らかにします。

一色氏は室町幕府の要職「四職」の家柄で、要するにお偉いさんの一族です。
そう名乗ることによって、箔をつけられるわけですね。

喜平次の母も不確定ですが、深芳野だという説もあります。
さらに深芳野は一色氏の出ともされるため、この場合は母方の名字を使わせたことになりますね。

こうなると、義龍の立場は宙ぶらりんになってしまいます。

一回は家督を譲られたと同然のポジションだったのに、明らかに格差をつけられたわけですから、怒りも湧いたでしょう。

そして弘治元年(1555年)。
仮病を装って孫四郎と喜平次をおびき出して謀殺して挙兵し、翌弘治二年(1556年)の4月20日、【長良川の戦い】で父の道三を討ち果たすわけです。

戦いは一方的なものでした。

なにせ美濃の地元勢は義龍をプッシュしていたのだから当然でしょう。
実は義理堅い織田信長もわざわざ救援に向かって来て、結局、何もできず、そのまま帰路へとついています。

このとき信長自らが殿(しんがり)を買って、無事に全軍を尾張へ戻したという話があります。

信長公記に掲載されておりますのえ、よろしければご覧ください。

長良川の戦いで信長が殿(しんがり)~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第24話

 

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信長の暗殺計画も実行していた

道三は義龍をバカ扱いしていたとされます。
が、その後の領国経営や外交については、ときに義龍のほうが優れているフシもあります。

例えば、こんな感じですね。

織田信行や織田信広と通じ、尾張を揺さぶる

・婚姻を通じた浅井氏から六角氏への外交切り替え

・一色氏(清和源氏)を名乗るにあたり、日蓮宗から禅宗への改宗

・朝廷へ接近し、治部大輔(のちに左京大夫)の官職をもらう

・幕府にも接近し、相伴衆の一員となる

などなど。
内政、外交、謀略と精力的に動いておりました。

変わったところではこんな話があります。

それは永禄二年(1559年)のこと。

織田信長がお忍びで上洛した際、火縄銃を用いた刺客を送り、信長を暗殺しようとしたのです。

京都上洛の信長に刺客が!~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第31話

このときは信長と機転の利く家臣によって見破られて失敗しましたが、記録上「日本初の狙撃」とされています。

なかなか大胆な試みですよね。
もしも義龍が凡将だったら、このような試みは実施されてなかったでしょう。

翌1560年は【桶狭間の戦い】があった年でもあり、この頃の信長が如何に危険な毎日だったか、ということも感じさせてくれます。
しかし、そんな義龍の脅威も続きません。

1561年に本人が33才の若さで急死してしまうのです。
マムシという強敵を倒し、信長にプレッシャーを与え続け、美濃一国を切り盛りしていた人物としては、あまりに呆気ない最期でした。

そのせいか斎藤義龍については、いささか過小評価された見方が広がっている気がしてなりません。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では伊藤英明さんが演じられ、注目度も上がることでしょう。
今後の新史料発見や、研究の進展が楽しみな人物といえそうです。

長月 七紀・記

【参考】




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