安田国継/wikipediaより引用

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信長に一番槍を喰らわせた安田国継! 本能寺の後は暴れん坊の宗茂や勝成と共に

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安田国継の名を知らずとも。
戦国ファンの皆さまなら、本日6月2日が如何なる一日か、ご存知でしょう。

天正十年(1582年)のこの日、あの織田信長明智光秀らによって斃された「本能寺の変」が起きました。

信長は森蘭丸などの側近と共にしばし応戦した後、自ら火の上がっている奥の間にこもり、そのまま腹を切ったといわれています。
その後の遺体や首の行方についてはわかっていませんが、「討死」でなかったことだけはおそらく確実です。

では、最後の最後に信長が相見えた敵は誰だったのか?
実はその人物の名前と、その後のことは伝わっています。

彼の名は、安田国継。
通称は作兵衛、後に天野源右衛門とも名乗りました。

 

光秀家臣・利三に仕えていた

弘治二年(1556年)に美濃の安田村というところで生まれ、いつしか明智光秀の家臣・斎藤利三に仕えるようになります。
光秀にとっては陪臣(ばいしん・配下の配下)ですね。

斎藤利三/wikipediaより引用

その頃の功績は不明なれど、本能寺の変では先鋒の一員ですから、日頃から真面目に武働きをしていたのでしょう。
光秀は信長に襲いかかるギリギリまで、兵に知らせていなかったとされていますので、国継はそれを聞いた途端にどう思ったか。ビビッたのか?

もしかしたら
「千載一遇の好機」
と気合を入れたのではないでしょうか。

当時の信長は、畿内をほぼ完全に掌握。
武田討伐も終え、あとは西国と上杉氏のみ……というところでした。言わば日本で一番の大物です。

もしも単独で信長の首を取ることができれば、光秀から凄まじい褒美が出ることは間違いありません。
一国一城の主になれるどころか、それ以上のことを望んでもよいぐらいの話でしょう。

まぁ、それは他の明智方の将兵も、似たようなものだったはずですが。

 

寡兵の織田軍に13,000の明智軍が襲いかかれば

そして天正十年6月2日の午前4時頃、いよいよ明智方が本能寺に攻め寄せます。

本能寺はたびたび信長の宿所として使われており、いくらかの防御機能は備えていました。
が、いかんせん明智軍との兵力差は圧倒的でした。

このときは信長も、長男・織田信忠も、京都に滞在してはおりましたが、手勢はわずか。
一方、明智軍は元々中国攻め中の羽柴秀吉豊臣秀吉)に加勢するために編成されていたので、1万3000ほどの兵力がありました。

その差は歴然。襲いかかられたら逃げる他ありません。
信長は気づいたときには包囲されてしまっていたので、もうどうしようもありませんでした。

この1万3000ほどの中で、信長のところまでたどり着けたのが国継とその他のいくらか、といったところでしょう。

信長はこのとき、本拠である安土城の面々に
「俺は小姓らを先に京へ行くが、お前たちは支度を済ませて、命令があり次第すぐ出陣するように」
と言い置いていました。

現代風にいえば、最低限のボディガードだけを連れて京都に来ていたのです。

逆にいえば、
「多少の暴漢に襲われても、返り討ちなり殿なりができる者だけを連れてきていた」
ということになりますね。

 

信長に襲いかかり、返す刀で蘭丸を討つ

有名な森蘭丸(成利)もこの中にいました。

蘭丸については信長との衆道関係が注目されがちですが、諸々の逸話からは、相当に頭のキレる人物であったことが推察されます。
父親である森可成や兄の森長可が槍の名手であることを考えると、蘭丸も並以上に槍を扱えたことでしょう。

他の小姓たちも、頭脳なり腕っぷしなりで、信長に認められた者たちだったはずです。

いわば信長自身が選んだエリート中のエリートと、今後の人生がごっそり変わるような褒美を賭けて攻め寄せる雑兵たちがぶつかりあったのが、本能寺の変ということになります。

始まったのが午前4時で、騒ぎが落ち着いたのが午前8時といわれていますから、多勢に無勢における信長の小姓たちの奮戦ぶりがうかがえますね。

安田国継は、運良く信長のところまでたどり着き、一番槍をつけたといわれています。
そこを蘭丸に阻まれ、下腹を突かれながらも、逆に蘭丸を討ち取ったのだとか。

森蘭丸/wikipediaより引用

おそらくはその間に、信長は奥へ入っていったのでしょう。
首こそ取れなかったものの、
「信長に槍をつけた」
「蘭丸を討ち取った」
ことは、長らく国継の誇りとなりました。

しかし、です。
本能寺の変から半月もしないうちに明智光秀が山崎の戦いで敗れ、落ち武者狩りに遭って自害。
褒美をくれるはずの人がいなくなってしまったため、国継はあっさり明智家を出てしまいます。

 

「当主も跡継ぎもいない家にいたってしょうがない」

突如の出奔だなんて、あまりにも薄情な感がありますかね。
実は光秀には、後継者となるべき息子や婿養子がいませんでした。

光秀の娘婿とされる人物は何人かいますが、跡継ぎという位置づけにはしていなかったようです。
また、実の息子についても不明です。光慶という男子がいたようですが、彼も生年不詳な上、本能寺の変の際に何をしていたのかが全くわかっていません。

そんな状況でしたので、国継からすると
「当主も跡継ぎもいない家にいたってしょうがない。どこか別の家に仕えて、生計を立てなきゃいかん」
となるわけです。

転職上等の戦国時代ですから、割と普通の価値観といえます。

彼は「天野源右衛門」と名を変え、新たな主を探し始めました。

ざっと見てみますと……
・羽柴秀勝(信長の四男・秀吉の養子)
・羽柴秀長(秀吉の弟)
蒲生氏郷(信長の娘婿)
などに仕えたようで、いずれもうまくいかなかったようです。

まぁ、彼らと信長の関係からすると、源右衛門を召し抱えたいとは思わないでしょうね。
一番信長と縁が薄いのは秀長にしても、律儀な性格からして、やはり源右衛門のことはあまり好ましくない存在でしょう。

また、秀勝の前は、よりにもよって森長可(蘭丸の兄)に仕えていた期間もあったようです。
長可も長可で、一般人には理解しがたい価値観と言動の人物なので、ただ単に気にしなかったのかもしれませんが……。

 

西の最強武将・宗茂の下では……

その後は、文禄三年(1594)までは立花宗茂に仕えていたようです。
ここにはしばらく落ち着いており、肥後国人一揆や文禄・慶長の役に参加していました。

その中で、いくつかの逸話が伝わっています。

主君を度々変えていることから、国継自身の性格に問題があったと見る方も多いようですが、そうとも限りません。
天正十五年(1587年)の肥後国人一揆について、こんな話があります。

このとき、宗茂が自ら二十数名を率いて敵の城付近を偵察しに行こうとしたとき、国継は諌めました。

国継は宗茂に向かってこう言ったのです。

「それは御大将としては軽率すぎる行動でしょう」

人によっては無礼と感じるような言い回しです。
が、宗茂はとんでもないスルースキルの持ち主。

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「この目で敵情を見なければ、上手く攻められまい」
とだけ言って、笑いながら引き返したとか。

ちなみにこの偵察、元々は小野鎮幸(通称:和泉)という宗茂の家臣がやる予定でした。
他の人々は
「(新参の源右衛門が諫言するくらいなのに)なぜ和泉は御大将をお止めしなかったのだ!」
と非難したそうです。ごもっとも。

 

流浪の武将・勝成とも親交あり

翌日、立花軍が城へ攻めかかると、道中の藪から一人、また一人と、手練らしき武士が出てきました。
襲ってくる様子はないものの素性がわからず、立花軍の人々は困惑して「お前たちは何者か?」と尋ねました。

すると、こう答えました。

「我々は、和泉様の命でここに忍んでおりました。敵の伏兵などがあれば、直ちに知らせるよう仰せつかっていたのです」

和泉は宗茂の舅・立花道雪の代から仕えていたので、主君の性格をよく知った上で、万が一ということがないように斥候を放っていたのでしょう。
これを知った源右衛門は、和泉の深謀遠慮に感じ入ったそうです。

また、源右衛門はこの一揆における戦いで水野勝成などと連携し、大きな手柄を立てたといわれています。
勝成も一癖も二癖もある最強クラスの武将で、各地を転々としておりましたから、国継と気が合うところがあったのかもしれません。

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その後、源右衛門は文禄・慶長の役の回想録として『天野源右衛門朝鮮軍物語』を書いたとされています
しかしこれは文体からして江戸時代の成立とみられるため、本人の著作ではないだろうというのが現代の見方です。

彼が残したメモや日記などから後世の人が書き起こしたか。
彼が子孫に語った話をどこぞの作家がまとめて本にしたか。
多分そのへんでしょうね。

江戸時代の書物は話が盛られることも珍しくないので、どこまで信用していいものか困るのが悩みどころです。話としては面白いものも多いのですが。

 

「どちらかが大出世したら、もう片方を召し抱えよう」

その後は立花家を去り、寺沢広高に仕えて8000石をもらっていたようです。

寺沢広高は尾張出身で、父と共に秀吉に仕えた出世人でした。
彼は永禄六年(1563年)生まれですので、源右衛門とは少し年が離れていますね。

広高は文禄元年(1592年)から、朝鮮の役関係で名護屋城の普請や各地の大名との連絡を担当していたため、このあたりでも国継と何らかの接点があったのかもしれません。

一説には、彼らは若い頃
「どちらかが大出世したら、もう片方を所領の1/10で召し抱えよう」
と約束しており、広高がそれを叶えたのだそうです。
いかにも”男の友情”という感じの話ですね。

こうして、晩年は旧知の仲である人のもとで落ち着いた源右衛門でしたが、最期は穏やかならぬものでした。
頬に謎の出来物ができ、しかもどんどん悪化していったため、自ら命を絶ったというのです。

しかもその日は、慶長二年(1597年)の6月2日。
本能寺の変からきっかり15年後のことでした。

当時の人々は「信長の祟りだ」と噂していたそうです。
まあ、そう思いたくもなるような理由と日付ですよね……。

十五年間何もせず、いきなり出来物を作って自害させるというのも、なんだかまどろっこしい信長さんの祟り。
呪いってそんなもんですかね。

長月 七紀・記

【参考】
『柳川史話 (1984年)』(→amazon link
国史大辞典
安田国継/wikipedia

 



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