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吉本せい/photo by Teiseisuru-0114 wikipediaより引用

わろてんか

わろてんかモデル吉本せいの生涯60年をスッキリ解説!ここに吉本興業の歴史始まる

更新日:

明石家さんまやダウンタウンなど、数多の人気芸人を輩出し、日本のお笑い界に君臨する吉本興業。

その歴史が明治時代、一人の女性によって始められたことを皆さんご存知でしょうか?
って、今更何言ってんだ、という話ですかね。

2017年10月に放送の始まったNHK朝ドラ『わろてんか』。
その主人公・藤岡てんは、吉本興業の創立者・吉本せいさんをモデルにしたドラマです。

ドラマでは、
笑顔の絶えない“ゲラ”(笑い上戸)のてん。
旅芸人の北村藤吉に恋する商人の娘。

いかにも朝ドラらしく快活で明るい女性像で描かれておりますが、わろてんかモデルとなった吉本せいさんは「ええとこのお嬢さん」どころか、若い頃から苦労に苦労を重ね、半ば行きがかり上で同社を担うことになり、数多の芸人を育ててきた強い女性でありました。

史実の吉本せいさんとは一体どんな人物だったのか?

その生涯60年をスッキリまとめてみました。(以下、敬称略)

※ドラマ『わろてんか』毎日のあらすじ感想レビュー

 

12人きょうだいの三女として生まれ

1889年(明治22念)、せいは兵庫県明石市の米穀商・林家の三女として誕生しました。
家はさほど裕福ではなく、また12人きょうだいであったため、楽な暮らしぶりとは言えませんでした。

成績優秀なせいは、本心では学業を続けたかったものの、そんな贅沢をできるほどの経済的余裕はありません。
当時の義務教育である尋常小学校四年まで終えると、船場の実業家のもとに奉公に出されました。
これが当時の、平均以下の家庭事情でした。
朝ドラのヒロインは大抵当然のように女学校に通うものですが、彼女らの場合はかなり裕福な家のお嬢様なのです。

せいの奉公先は、倹約家でした。
倹約そのものは悪いことではありません。
ただし、度が過ぎるとまるで虐待じみてきます。
ここの主人は、奉公人や女中が食欲旺盛であると困るため、わざわざ雨水がかかる場所に漬け物樽を置き、悪臭を漂うようにしました。

あまりの仕打ちに耐えかねたせいは、ある日、こんな風に提案します。
「奉公人たちで集めたお金で生姜を買い、これを刻んで食事にかけたらどうか」
まことに天晴なアイデアですが、これが主人の耳に入ってしまい、せいはこっぴどく叱られてしまうのでした。

この逸話からは主人のドケチぶりだけではなく、せいの機転もうかがえます。

 

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頼りない夫、働き者の妻

19才のころ、せいは吉本家の二男・吉次郎に嫁ぎました。
屋号を「箸吉」という老舗。
吉次郎は家を継ぐと当主の名を襲名し、吉兵衛と名乗るようになります。

しかし、当時は日露戦争後のバブルが崩壊した頃です。
どこもかしこも不景気であり「箸吉」もまた経営が傾いていました。

それを立て直そうと働くどころか、現実逃避する性質の吉兵衛。
彼は芸能を好み、遊んでばかりというどうしようもない男だったのです。

債権者が自宅まで押しかけると雲隠れしてせいに対応させ、債権者が帰ると「断り方がなっとらん!」とせいを叱り飛ばし、日本刀で脅したというのですから、本当にろくでもありません。
吉兵衛としては才気溢れるせいが、気弱な自分を見下しているように思えてイライラしたのかもしれませんが、古き日本家庭の闇を見るような話ではあります。

さらに、姑のいびりも酷いものでした。
この姑はユキといって、吉兵衛の母ではなく、吉兵衛の父の後妻でした。

ユキは里帰りから戻って来た新婚のせいの前に、盥(たらい)をデンと置きました。
中には、厚子(冬用の分厚い着物)が積み重ねられています。分厚い厚子を何枚も洗っていると、手の皮が剥け、血がにじんできます。盥の水は血で赤く染まりました。

食事の作り方や掃除から商売まで。何から何までネチネチと嫌味を言うユキ。
嫁と姑の問題は女性同士のこととされますが、間の夫が調停することはできるはずです。
しかし、吉兵衛は無関心でした。

吉兵衛は遊び呆けているだけならばまだマシです。
芸能好きが昂じて自分でも芸能興行をやってみようとして、騙されて家業を廃業にまで追い込んでしまいます。

せいはやむなく実家に身を寄せますが、実家でも父からこう言われてしまいます。

「見込みのない夫なら別れろ」
「嫁ぎ先から戻るのは、骨になってからにしろ」

どっちやねん! どうしろっちゅうねん!
そう突っ込みたくもなりますが、そんな矛盾したことを言われてしまうせいでした……。

せいは内職をしたり、働きに出て家計をなんとか支えようとしました。
彼女は子だくさんで、二男六女の母。しかし当時は乳幼児の死亡率が現代よりも格段に高いものです。
長男、長女、二女、四女は夭折してしまい、戸籍上は8人の母となっておりましたが、せい自身は10人以上の子がいたと語り残しているので、流産等もあった可能性があります。

時代が時代です。
子だくさんのせいが、汗水たらして働き、稼いだとしても焼け石の水だったでしょう。

 

「吉本興業部」の始まり

1912年(明治45年)、芸能好きが昂じた吉兵衛は、「第二文芸館」を買い取りました。
貧しい吉本家には買収資金もなく、せいが頭を下げて金策に周り、実家にまで助けを求めて、ようやくこぎつけたのでした。

この「第二文芸館」での寄席が、「吉本興業」の起こり。
買収の翌年には「吉本興行部」が発足します。

とはいえ、繁華街の天満には寄席が数多くあり、第二文芸館は最低ランクでした。
ここに客をできるだけ詰め込み、いかにして木戸銭=入場料を稼ぎ出すか。
それがせいの工夫です。

ともかく入場料が欲しいからには、客をぎゅうぎゅうに詰め込みます。
空調なんてありませんし、窓も閉め切ってムンムンとしています。
そうなると、客は「こりゃたまらんわ」と出て行ってしまいます。そうすると、結果的に客の回転が効率よくなると。

雨が降り出すと、雨宿りの客が押しかけます。
そうすると入場料の看板をかえて、いつもの倍取るわけです。

現代ならばクレーム殺到しそうな手段ではありますが、これは吉本夫妻だけではなく、当時の寄席はどこもそんなものだったのです。
こうした客を騙すような工夫では、立志伝としては面白くありません。

ここからが、せいの機転の発揮しどころです。

彼女は興行主であるにも関わらず、客席の整理や芸人の身支度を手伝いました。
こまごまとしたせいの気遣いに、芸人は感心するわけです。

「気の利くおばちゃんやなあ」

同じギャラをもらうなら、雇い主が親切な方がいいわけで。
せいの気遣いに感激した芸人たちは、芸の腕前を磨いてよりよいものを見せることで、恩返ししたのでした。
この辺の彼女の機転・気遣いは、山崎豊子さんの小説『花のれん』でも丁寧に描かれております。

 

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物販でも一儲け

また、せいは考えました。
収入は入場料だけなのだろうか。

夏場、蒸し暑い中、客は汗を拭きながら寄席から外へ出て行きます。

『あんなに汗かいとったら、帰りに何か冷たいもんでも飲んでいかはるんやろなあ……』

と、そこでせいは気がつきます。
物販の可能性です。

思い立ったら行動が早いせいは、菓子屋で冷やし飴を仕入れました。

冷やし飴とは、いわゆる普通の“アメ”ではなく“飲み物”です。
お湯で溶いた水飴の中に生姜の搾り汁を加えたもので、関西圏(現在では他に広島県・高知県)で飲まれる夏のドリンクです(参考/日経新聞)。

 

せいは即席の店を寄席に併設すると、“氷で冷やした”冷やし飴を売り始めたのです。

しかも販売方法が一風変わっておりました。
普通は樽に入れて冷やすところを、彼女は氷の上に冷やし飴の瓶を置き、その上でゴロゴロ転がして売ったのです。

この瓶を転がすスタイルが受けて、道ゆく人は面白がって買い始めます。
はじめは寄席の客だけに売るつもりが、通行人にまで売れます。

ついには
「飴のついでに寄席でも見て行くか」
と、冷やし飴を買うために脚を止めた客が、寄席に寄っていくという効果まで!

物販の可能性に気づいたせいは、さらに工夫をします。
現在、舞台鑑賞の際は飲食禁止が一般的ですが、当時は寄席の席で何かしら食べるのは当たり前でした。
この食べ物の種類に見直しを加えたのです。

例えば、甘い物よりも、なるべく塩辛い物を売る。
そうすれば、喉が渇いて飲み物も売れるだろう、ということです。

更には冬場になると、客の食べ残した蜜柑の皮を拾い乾燥させ、漢方薬局に売ったというのですから、凄い工夫です。

一方で、自分で始めておきながら事業に余り身を入れない旦那の吉兵衛。
ボンクラな夫の横で積極的に商売に精を出し、更には芸人たちにも優しく配慮するせいの姿に感銘を受けました。

「あのおばちゃんのためにも、がんばらんとあかん!」

せいは創業当時から、吉本興業の屋台骨でした。

 

上方演芸界を席巻する

せいの涙ぐましく、かつ現代でも通用する物販の工夫は素晴らしいものがあります。

しかし、商売はそれだけで大きくなるものでもありません。

1915年(大正4年)、吉本興業部は多角経営していた複数の寄席を「花月」と改名しました。
例えば第二文芸館は「天満 花月」。

「花と咲きほこるか、月と陰るか、全てを賭けて」
そんな意味が込められたなかなか風流な名前でした。

当時、関西のお笑い界は、様々な派に分裂していました。
吉本興業部は、派閥に属さない落語家を集めて「花月派」を結成。さらには「浪花落語反対派」も吸収します。
これは「浪花の落語に反対する一派」ではなく、ひとつの派です。

寄席だけではなく、ものまねや義太夫、娘義太夫、剣舞、曲芸も含める派でした。

さらには三友派の中心となる「紅梅亭」を買収することで三友派までおさめ、1922年(大正10年)までには上方演芸界の帝王として君臨することになりいます。
このあたりの躍進は、仕事は熱心でなくとも芸人界に顔が利く吉兵衛の存在も大きかったことでしょう。

吉本興業部では、客を呼べる芸人にはポンと金を積み上げます。
するとそれを見ている芸人たちは、「吉本の御料さん(奥様)は気前のよい人やで」と自ら売り込みにやって来ます。
まさしくこれはせいの計算通りです。
こうして抱えた虎の子の芸人は、看板芸人としてドーンと派手に宣伝するわけです。

ちなみに、ある芸人の月給は五百円でした。
当時の中堅サラリーマンが四十円の時代ですから、いかに高給取りかご理解いただけるでしょう。

 

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あの小僧、金勘定はわかっても、芸はちぃともわからへんで

1923年(大正12年)に関東大震災が起きたときも、吉本興業部はチャンスに変えました。

せいは復興のための救援物資を関東に送ります。
義援金だけではなく、寝具や食料といった今すぐ欲しいものを送るのがせいの才覚。気落ちしている関東の芸人をしっかりと支えたのです。

東京の芸人たちは、復興を待たずに大阪にやって来て寄席を始めました。
お笑いにも東西の違いはあるもので、彼らの芸は必ずしも関西の客に受けるものでもありませんでしたが、そこは「寄席を見て復興支援」ということもあるのでしょう。客入りは上々でした。

しかし、ここで試練がまたせいを襲います。
1924年(大正13年)、せいにとって最後の子である二男が生まれて間もなく、吉兵衛が亡くなったのです。
37才という働き盛り。幼い子を抱えて、せいは34才で未亡人となってしまったのでした。

せいは、実弟の正之助と弘高を呼び寄せ、吉本興業部を手伝わせることにします。

彼ら実弟は優秀であり、事業は順調に拡大を続けました。

弟が優秀というのは確かにそうではあるのですが、ただし、正之助は「金勘定は得意でも芸のことはわからない」人物でした。
吉兵衛は欠点だらけの男には思えますが、芸はわかるため落語家も一目置きます。
折衝も得意です。
しかし若く、芸能センスもない正之助は、落語家からナメられっぱなしでした。

「あの小僧、金勘定はわかっても、芸はちぃともわからへんで」

正之助は、玄人的なお笑いセンスよりも、わかりやすいものの方が好きだったのです。

それをマイナスどころかプラスに使ったのがせいの鋭い商売勘です。

センスのない正之助でも笑える芸ならば、万人受けするだろう、と弟の感覚をむしろ重宝しました。
その一方で憤懣やるかたない落語家たちの愚痴を聞いて、なだめる役割も果たしました。

もう一人の弟・弘高は兄とは違い、シビアな感覚よりもロマンチスト的な部分がありました。
兄弟はかなり性格が異なり、もし一緒に大阪で仕事をしたらば対立したのではないかと思われる部分もあります。
それを適材適所に配置するセンスもまた、せいは持ち合わせておりました。

人情の機微に敏感な方だったのでしょう。

 

時代は、わかりやすい笑いを求めている!?

明治から大正が終わり、昭和になろうというころ。
市民の生活も変わってきていました。

芸能だけが旧態依然としていては、変化に追いつけないのではないだろうか?

せいたちはそう考え始めます。そんな時、正之助が万歳に目を付けます。

万歳というのは大変歴史が古い芸能で、本来は祝い事で行われるものでした。
鼓を手にした二人組の芸人が、歌舞伎のパロディや小咄をしながら演じるもので、地域ごとに特色があるものです。

落語家から疎んじられていた正之助にとって、新たな芸を育てていけるのは魅力のあることでした。
万歳から祝い事の要素をなくし、鼓の替わりにハリセンを持たせ、教養やセンスがない人でもよくわかるおもしろおかしい話をさせる――。

この万歳は、しかしながら当時はまだ白い目で見られていました。

一流の芸人はたった一人で客と向き合うもの。
二人組で演じるなんて邪道で一段格下のものだ、という意識があったからです。

芸のセンスがない正之助が推したということも、落語家からは見下される一因になりました。

しかし、1927年(昭和2年)暮れ、吉本興業では格式ある「弁天座」で万歳を演じることにしたのです。

プライドのある落語家たちが面白いわけもありません。
不満はせいにぶつけられましたが、万歳興行そのものを止めようとはしませんでした。

かくして行われた「全国万歳座長大会」は大成功をおさめます。
正之助は鼻高々。
そして勢いに乗って難波に“入場料十銭”の万歳専門を開館するのです。

一等地の難波において、この値段は破格の安さ。
「十銭万歳」は大流行し、「万歳舌戦大会」なる人気投票まで行われました。

ここまで成功していながらも、せいは不満でした。
万歳には何か目新しさが、決定的な革新性が欠けているように思えるのです。
まったく新しい娯楽、今までと違う客層にアピールしたいせいとしては、何か物足りないのです。

 

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インテリ万歳のエンタツ・アチャコ

そこで吉本が白羽の矢を立てたのが、横山エンタツと花菱アチャコの二人でした。

万歳をしていたアチャコ。
アメリカでの海外経験巡業経験を持ち、チャップリンを真似て口ひげをたくわえ、インテリ気質のエンタツ。
エンタツは、まるで新しい芸を作りたいと考えており、吉本の求める条件とまさに一致していたのです。

二人は万歳を変えました。

・和装をやめて、洋装のスーツ姿で舞台に立つ
・「俄」(歌舞伎のパロディ)のような話し方や数え歌はやめる
・高座では「君」「僕」と呼び合う

みるからに芸人めいた人ではなく、街中におるサラリーマンと大して変わらない人が、やたらと面白い掛け合いをする。
そういう新しい芸能を、このコンビは生み出したのでした。

花菱アチャコ(左)と横山エンタツ(右)/wikipediaより引用

しかし、すぐに彼らが受け入れられたわけではありません。
高座に立つと罵声が飛びました。

「ほんまの『万歳』やらんかい!」

エンタツ・アチャコにしてみればこれこそ本物の、新しい万歳です。
しかし観客は昔ながらのものを見たがったのです。
だからこそ、新しいものを見たがる学生やサラリーマンにはウケました。

「古くさいのと違うて、あの『インテリ万歳』はえろうおもろいらしいで」

コンビ結成から半年にして、エンタツ・アチャコは吉本でも売れっ子の芸人になりました。

せいもこれには満足、やっと納得のいく新しい芸能を見いだしたのです。

こうして吉本興業部の主力は、落語から万歳に切り替わっていきました。そしてその万歳が観客にウケ始めると、それまでは苦々しい目で万歳を眺めていた落語家の中にも転向する者が出てきます。
すると、名前も今まで通りでは古くさいということになります。

音は残し、字を宛てて「漫才」の誕生。
まさしく芸能の世界を変える革命でした。

 

ラジオの波がやってきた

漫才という新たな芸能を生み出したせいですが、保守的な部分もありました。

先見性のあるせいは、芸を小屋だけに閉じ込めておいてはいずれ限界が来ると感じてはいました。

ラジオや映画の前に、廃れてしまうだろうと。

しかし、だからといってすぐさま新しいメディアの潮流に乗れるわけでもありません。

1930年(昭和5年)、桂春団治が無断で落語のラジオ放送を行ったことに、吉本興業部は激怒。
ラジオで落語をやられたら、寄席までわざわざ聞きに来る客がいなくなると危惧したのです。

放送したJOBK(大阪放送局)、二代目桂春団治、吉本興業部はこの放送をめぐり揉めに揉めました。

が、次第に彼らは、和解した方が得策だと気づき始めました。

JOBKは、エンタツ・アチャコの人気漫才『早慶戦』を放送すれば、絶対に大人気になるとわかっているわけです。
吉本興業部としてもラジオの宣伝力に気づき始め、まぁここは先方が頭を下げてくるうちに和解した方がええやろ、と考え始めます。

かくして決まった『早慶戦』の放送は「南地花月」から実況中継することになりました。
話題性もあって、客で満員になった会場を見てせいは大満足。
そしてこの頃になるとラジオが客を減らすとは思わなくなっていました。

「ラジオで放送を聞いたもんが、翌日、寄席へ押し寄せるに違いない」

そんな読みはピタリと的中。ラジオは客を減らすどころか、増やすのに役立ってくれたのです。

『早慶戦』がラジオでかかると、日本中がフィーバー状態となりました。
吉本興業部は漫才の人気をさらに確かなものとするために、文芸部に漫才のための作家を大勢雇いました。
集まった作家たちは熱心に意見交換し、よりよい脚本を練り上げてゆくのでした。

一方で、漫才重視の吉本興業部の姿勢に不満を持つ落語家たちがいました。
特に二代目桂春団治は様々な方針において対立し、ついには決裂。
彼との確執と死をもって、吉本興業部は落語と縁が切れてしまうのでした。

 

「女今太閤」「女版小林一三」の栄光

漫才とラジオ。
この盤石の組み合わせで、吉本興業部の名は日本全国に轟くようになりました。

その頂点に立つせいは、「女今太閤」、「女版小林一三」と言われるほど。
小林一三とは、当時の有力実業家。ドラマ『わろてんか』の中で、高橋一生さん演じる伊能栞のモデルと目される人物です。

1928年(昭和3年)には、慈善事業の功績も認められ「紺授褒章」を受け、さらに1934年(昭和9年)には大阪府から功績を称えて表彰されています。

しかし「女今太閤」と称された吉本せいは、皮肉にも晩年の黄昏まで豊臣秀吉のそれと同じような寂しさがあり、ある事件が降りかかります。

それは1935年(昭和10年)のことでした。
辻阪信次郎という政治家が、脱税汚職事件で逮捕されてしまったのです。

大阪府議会議長までとつとめ、実業家としても政治家としても成功していた信次郎は、せいとただならぬ仲であると囁かれておりました。

せいは彼の政治活動に多額の寄付をしていました。
せいが大阪府から表彰されたのも、信次郎の根回しがあったという噂も。

そうなると火の粉はせいにもふりかかります。脱税工作に関わったとして、当局に出頭を命じられるのです。

「女今太閤」の凋落に、マスコミは飛びつきました。
大勢の逮捕者が出たこの事件でも、せいの注目度は桁違いだったのです。

しかし事件は意外な形で終わりを迎えます。
1936年(昭和11年)1月、信次郎が獄中で首を吊ったのです。

最大の容疑者がいなくなり、もはや捜査は継続できません。
信次郎はせいに関しては一切黙秘を貫いていたらしく、まさに命がけで彼女を守ったのでした。

ちなみにこの辻阪信次郎もまた、『わろてんか』で伊能栞のモデルという説もあるようです。

仮にドラマ内で、この通りの死に方をすると、『おんな城主直虎』で高橋さんが演じた小野政次とよく似た最期を迎えることになります。
しかし、もう一人の有力モデルである小林一三に寄せてくると、そんなことにはならないと思いますが……。

 

通天閣も手に入れた

1938年(昭和13年)、吉本興業部は吉本興業株式会社となりました。

これを機に、せいは一線から引くことを決意。
同年、せいは二十万円で通天閣を買い取ります。

通天閣は現在も大阪の象徴ですが、当時はそれ以上のもの。
まさに昭和版大阪城のようなものではないでしょうか。
これを手にしたせいは、まさに「女今太閤」、大阪屈指の成功者でした。

当時の通天閣は時代遅れな時代の遺物でした。

電飾広告の可能性を考えて手に入れたという脚色(小説『花のれん』)もありますが、これはせいが持ち主になる前から行われていたことです。
実利より「城主」になりたいという思いがあったのでしょう。

ちなみにせいが手にした初代通天閣は1943年(昭和18)に焼け落ちており、現在のものは二代目です。

 

「女今太閤」の黄昏

せいが第一線を退くと、吉本興業株式会社は、危機に直面します。
戦時体制となり、お笑いは必要とされなくなったからです。1945年(昭和20)の敗戦まで、この状況は続きます。

しかし敗戦で一息をつけるはずでもなく、せいにはさらなる悲劇が襲いかかります。

せいにとって唯一生き残っていた息子である二男・穎右(えいすけ)は、父の顔を知らずに、母に溺愛されて育ちました。
せいはこの息子の成長を生きがいにしており、いずれ吉本興業株式会社も穎右に託すつもりでした。

しかし、穎右は母の意に逆らい、笠置シヅ子と恋に落ちてしまいます。

シヅ子は「ブギの女王」と呼ばれる大阪歌劇団(OSK)の花形。
ところがせいは、シヅ子が妊娠しているにも関わらず、この恋愛に大反対します。

そうこうしているうちに穎右は24才で肺結核に倒れ、短い一生を終えました。
シヅ子が産んだ子は、せいにとって大事な孫となるのでした。

せいは我が子の3年後、1950年(昭和25)に60才で死去しました。
死因は穎右と同じ肺結核でした。ありとあらゆる成功を手に入れ、財力も手にしながら、家庭的な幸福だけは手に入れられなかったせい。
その寂しい晩年は、その異名の由来となった豊臣秀吉とどこか似ているのでした。

日本中に笑いを届けた吉本せい。
綺麗事だけではなく、時には裏稼業のものとも親しくつきあい、「金でしばる」と芸人から嘆かれたほどえげつないほど手腕も発揮しました。

華々しいようでどこか寂しさもある、苦労人の一生なのでした。

※2018年後期の朝ドラまんぷくモデル 安藤百福については以下の記事をどうぞ!

まんぷくモデル安藤百福の生涯96年をスッキリ解説! 日清食品の誕生物語

※吉本興業そのものの歴史については以下の記事をご参照ください

吉本興業の歴史 何がどうスゴい? 明治時代から笑いと芸人を追求してきた創業者哲学

※ドラマ『わろてんか』毎日のあらすじ感想レビューは以下の画像をクリック!

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わろてんか伊能栞(高橋一生)のモデル 小林一三の生涯84年をスッキリ解説!

文:小檜山青

【TOP画像】photo by Teiseisuru-0114 /wikipedia




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【参考文献】

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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