明石家さんまやダウンタウンなど、数多の人気芸人を輩出し、日本のお笑い界に君臨する吉本興業。
その歴史が明治時代、一人の女性によって始められたことを皆さんご存知でしょうか?
って、今更何言ってんだ、という話ですかね。
2017年10月に放送されたNHK朝ドラ『わろてんか』。
その主人公・藤岡てんは、吉本興業の創立者・吉本せいさんをモデルにしたドラマです。
劇中では快活で明るい女性像で描かれましたが、史実の彼女は「ええとこのお嬢さん」どころか、若い頃から苦労に苦労を重ね、数多の芸人を育ててきた強い女性でありました。
吉本せいさんとは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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12人きょうだいの三女として生まれ
1889年(明治22念)、せいは兵庫県明石市の米穀商・林家の三女として誕生しました。
家はさほど裕福ではなく、また12人きょうだいであったため、楽な暮らしぶりとは言えません。
成績優秀なせいは、本心では学業を続けたかったものの、そんな贅沢をできるほどの経済的余裕もありませんでした。
義務教育である尋常小学校四年まで終えると、船場の実業家のもとに奉公へ。
これが当時の、平均以下の家庭事情でした。
朝ドラのヒロインは大抵当然のように女学校に通うものですが、彼女らの場合はかなり裕福な家のお嬢様なのです。
せいの奉公先は、倹約家でした。
倹約そのものは悪いことではありません。
ただし、度が過ぎるとまるで虐待じみてきます。
ここの主人は、奉公人や女中が食欲旺盛であると困るため、わざわざ雨水がかかる場所に漬け物樽を置き、悪臭を漂うようにしました。
あまりの仕打ちに耐えかねたせいは、ある日、こんな風に提案します。
「奉公人たちで集めたお金で生姜を買い、これを刻んで食事にかけたらどうか」
まことに天晴なアイデアですが、これが主人の耳に入ってしまい、せいはこっぴどく叱られてしまうのでした。
この逸話からは主人のドケチぶりだけではなく、せいの機転もうかがえます。
頼りない夫、働き者の妻
19才のころ、せいは吉本家の二男・吉次郎に嫁ぎました。
屋号を「箸吉」という老舗。
吉次郎は家を継ぐと当主の名を襲名し、吉兵衛と名乗るようになります。
しかし、当時は日露戦争後のバブルが崩壊した頃です。
どこもかしこも不景気であり「箸吉」もまた経営が傾いていました。
それを立て直そうと働くどころか、現実逃避する性質の吉兵衛。
彼は芸能を好み、遊んでばかりというどうしようもない男だったのです。
債権者が自宅まで押しかけると雲隠れしてせいに対応させ、債権者が帰ると「断り方がなっとらん!」とせいを叱り飛ばし、日本刀で脅したというのですから、本当にろくでもありません。
吉兵衛としては才気溢れるせいが、気弱な自分を見下しているように思えてイライラしたのかもしれませんが、古き日本家庭の闇を見るような話ではあります。
さらに、姑のいびりも酷いものでした。
この姑はユキといって、吉兵衛の母ではなく、吉兵衛の父の後妻でした。
ユキは里帰りから戻って来た新婚のせいの前に、盥(たらい)をデンと置きました。
中には、厚子(冬用の分厚い着物)が積み重ねられています。分厚い厚子を何枚も洗っていると、手の皮が剥け、血がにじんできます。盥の水は血で赤く染まりました。
食事の作り方や掃除から商売まで。何から何までネチネチと嫌味を言うユキ。
嫁と姑の問題は女性同士のこととされますが、間の夫が調停することはできるはずです。
しかし、吉兵衛は無関心でした。
吉兵衛は遊び呆けているだけならばまだマシです。
芸能好きが昂じて自分でも芸能興行をやってみようとして、騙されて家業を廃業にまで追い込んでしまいます。
せいはやむなく実家に身を寄せますが、実家でも父からこう言われてしまいます。
「見込みのない夫なら別れろ」
「嫁ぎ先から戻るのは、骨になってからにしろ」
どっちやねん! どうしろっちゅうねん!
そう突っ込みたくもなりますが、そんな矛盾したことを言われてしまうせいでした……。
せいは内職をしたり、働きに出て家計をなんとか支えようとしました。
彼女は子だくさんで、二男六女の母。しかし当時は乳幼児の死亡率が現代よりも格段に高いものです。
長男、長女、二女、四女は夭折してしまい、戸籍上は8人の母となっておりましたが、せい自身は10人以上の子がいたと語り残しているので、流産等もあった可能性があります。
時代が時代です。
子だくさんのせいが、汗水たらして働き、稼いだとしても焼け石の水だったでしょう。
「吉本興業部」の始まり
1912年(明治45年)、芸能好きが昂じた吉兵衛は、「第二文芸館」を買い取りました。
貧しい吉本家には買収資金もなく、せいが頭を下げて金策に周り、実家にまで助けを求めて、ようやくこぎつけたのでした。
この「第二文芸館」での寄席が、「吉本興業」の起こり。
買収の翌年には「吉本興行部」が発足します。
とはいえ、繁華街の天満には寄席が数多くあり、第二文芸館は最低ランクでした。
ここに客をできるだけ詰め込み、いかにして木戸銭=入場料を稼ぎ出すか。
それがせいの工夫です。
ともかく入場料が欲しいからには、客をぎゅうぎゅうに詰め込みます。
空調なんてありませんし、窓も閉め切ってムンムンとしています。
そうなると、客は「こりゃたまらんわ」と出て行ってしまいます。そうすると、結果的に客の回転が効率よくなると。
雨が降り出すと、雨宿りの客が押しかけます。
そうすると入場料の看板をかえて、いつもの倍取るわけです。
現代ならばクレーム殺到しそうな手段ではありますが、これは吉本夫妻だけではなく、当時の寄席はどこもそんなものだったのです。
こうした客を騙すような工夫では、立志伝としては面白くありません。
ここからが、せいの機転の発揮しどころです。
彼女は興行主であるにも関わらず、客席の整理や芸人の身支度を手伝いました。
こまごまとしたせいの気遣いに、芸人は感心するわけです。
「気の利くおばちゃんやなあ」
同じギャラをもらうなら、雇い主が親切な方がいいわけで。
せいの気遣いに感激した芸人たちは、芸の腕前を磨いてよりよいものを見せることで、恩返ししたのでした。
この辺の彼女の機転・気遣いは、山崎豊子さんの小説『花のれん』でも丁寧に描かれております。
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