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武田勝頼/wikipediaより引用

武田・上杉家 その日、歴史が動いた

武田勝頼が長篠の戦いから天目山で自害するまで… 武田家の子孫や家臣達はドコ行った?

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「本能寺は、いち(1)ご(5)ぱん(8)つ(2)の年」なんてアレな語呂合わせがある通り、1582年=天正十年といえば本能寺の変の印象が強いですよね。
が、同じ年の春にはこれまた歴史に大きな影響を残した出来事がありました。
天正十年(1582年)3月11日は、天目山の戦いで武田勝頼が織田家に敗れ、戦国大名としての武田家が滅亡した日なのです。

「滅亡」というと、ついつい一族・家中揃って全滅したかのようなイメージを持ってしまいますが、実際にはそういう例は少なく、特に女性や家臣は生き延びてまた別の人生を送っていることがほとんどです。
もちろん、そのときの当主や最後まで主に従った家臣などはこのタイミングで自害、もしくは敵方に処刑されることが多いですが…。

誤解を恐れずに申しますと、武田家はそういった意味で典型的なモデルケースともいえます。
まずは滅亡までの流れをざっくり見ていきましょう。

 

織田・徳川に人材を崩され、衰退の道へ

信玄が亡くなって当主が勝頼になった後、武田家は長篠の戦い織田信長徳川家康連合軍にボロ負けし、衰退の道をたどります。
原因はいろいろあり、勝頼に関してはその能力を見直す声もあるようですが、信玄が亡くなってから勢力を盛り返した徳川家康との戦いで、家康領の遠江で孤立した高天神城(静岡県掛川市)の味方を見殺し同然にしてしまったことがかなり響いたと思われます。

本人が言ったかどうかはともかく「人は石垣、人は壕、情けは味方、仇は敵」と伝えられる信玄の子供として、これは大いに家中を揺るがしました(そもそも甲斐をまとめるのは信玄でも相当苦労したとの話も)。
こんな状況ですから、日頃から不満を持っていた家臣や親族も多く、これを見た織田信長と家康が「待ってました」とばかりに彼らへ「ウチに来れば優遇するよ」と働きかけたため、武田の人材はどんどん減っていってしまいます。

勝頼は人材不足を防備で補おうとして新たに城を築きますが、城はタダでは建ちません。お金も物も人もかかります。その負担を部下に強いたせいで、勝頼は余計に人心を失ってしまいました。

あがけばあがくほど事態が悪化していく――。歴史においてはよくある話ですが、笑えない話でもあります。
その状況で、信長はついに本格的な武田討伐の軍を起こしました。正親町天皇からもお墨付きをもらい、名実共に有利なのは圧倒的に織田家。かねてからの同盟相手・徳川家ももちろん一緒になって攻めてきます。

 

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木曽義昌に続き重鎮・穴山信君も寝返った!

さらにこのタイミングで、勝頼にとっては義弟(妹の夫)である木曾義昌という人物が織田に寝返ります。
織田方の美濃・飛騨との国境線である西信濃の木曽地方が裏切ったのですから、もちろん勝頼はブチ切れ。

義昌から預かっていた人質を殺し、さらに義昌を攻めようとしますが、生憎2月の豪雪で進軍できませんでした。

冷静に考えれば裏切り者の始末より織田・徳川への備えを優先すべきなんですよね。その判断もできない&諫言する家臣すらいない、あるいは家臣の言うことも聞けない状態だったかもしれません。
さらには浅間山の噴火まで起こり、「これ神様も”勝頼オワコン”って言ってるんじゃね?」(超訳)と見られてしまって余計家中の統制が取れなくなっていきました。

そんな状態なので、各方面で連携を取りながら進撃してくる織田・徳川軍に対し、武田軍は連戦連敗。駿河を任せていた重鎮・穴山信君(梅雪)も実は事前に寝返っており、まさに不幸のズンドコ状態に陥りました。
ゲームだったらフラグが乱立どころか、どう見てもルート確定済みです。本当にありがとうございました。

持明院所蔵の武田勝頼・夫人・信勝/Wikipediaより引用

持明院所蔵の武田勝頼・夫人・信勝/Wikipediaより引用

 

勝頼に冷遇されながら最後まで戦った諏訪頼豊 

そんな感じで傍から見れば自ら滅亡に向かって爆走していったも同然な武田家も、やはり武士としての意地があるので、勝頼と最後まで残った家臣は戦い続けました。

その一人に、諏訪頼豊(よりとよ)という人がいます。勝頼の母方の親戚ですが、日頃から勝頼に冷遇されていました。
そのため彼は自分の家臣に「この隙に諏訪家を再興しましょうよ!」と言われます。それでも、勝頼と共に最後まで戦ってくれています。戦隊物とかアニメの主人公だったらここで良いフラグが立つところですけども、残念ながら歴史の主役は勝頼ではなかったので焼け石に水も同然でした。残念。

勝頼に味方をしたかったのではなく、「今諏訪家を再興しても、信長か家康に従わないといけないじゃん。それはヤダ」とでも考えたのでしょうかね。
ちなみに頼豊をはじめとした勝頼の近縁に当たる人々とこの時点まで残っていた重臣達は、勝頼の自害よりも前に織田軍に捕まって処刑されています。

月岡芳年作の武田勝頼自害/Wikipediaより引用

月岡芳年作の武田勝頼自害/Wikipediaより引用

 

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1417年応永の武田信満滅亡に続き、またも天目山で… 

追い詰められた勝頼でしたが、最後の最後まで寡兵ながらに頑強に抵抗します。
しかし、その行軍はもはや生き延びるためではなく、ふさわしい死に場所を求めるものになっていました。

辱められるよりは…と考えたか、妻子や侍女を含めた500人ほどの一行は、かつて一度武田家が滅びた山・天目山(厳密には天目山という山はなくその地区にあるお寺棲雲寺の山号で、木賊山=とくさやまが正式名称)へ向かいます(一度目は1417年応永の武田信満滅亡)。

普通そんな縁起の悪いところへは近寄らないでしょうが、本当に最期だと思ったからこそ、先祖と同じ死に場所を選んだのでしょうね。

しかし、天目山では地元の人たちが入山を拒否。勝頼を支援したとあとで織田軍にバレると自分たちも大変なことになるから、見限られたのです。

そして3月11日、勝頼は天目山(木賊山)の麓の田野というところで、織田軍の滝川一益隊に玉砕覚悟の最後の戦いを挑みます。北条氏から来た妻は自害、子で正式には武田氏をついだ息子の武田信勝は壮絶な戦死。勝頼は自害したとも乱戦で戦死したとも言われており、はっきりしていません。ともかく意図した通り、先祖とだいたい同じ場所で二度目の滅亡を果たしたのでした。

大分長くなってきましたが、次は生き残った人々の話に移りましょう。

勝頼と夫人のお墓/Wikipediaより引用

勝頼と夫人のお墓/Wikipediaより引用

 

大久保忠隣の家臣となった武田旧臣・大久保長安

上記のような経緯のため、武田家の関係者で生き残ったのは、最期まで勝頼と行動を共にした人ではありません。そういう人は勝頼を逃がすために討死したか捕まって処刑されてしまいましたからね。
具体的にいえば、女性であれば結婚で、家臣なら勝頼を見限って他の家にいた人たちです。
そのため「武田旧臣」と呼ばれる人は有名無名含めて案外多いのですが、中でも後々強烈なエピソードを残したのが大久保長安(ながやす)という人物です。

長安は、猿楽衆の家に生まれ、武田家に仕え、のちに武田の重臣である土屋昌次(直村)から土屋姓を授けられました。相当に優秀だったのでしょう。
武田家が滅びた後、家康に仕え、家康の重臣の大久保忠隣の家臣になり、今度は「大久保」姓を与えられました。

本能寺の変の後、徳川領になった甲斐の道路や河川を整え、金山の発掘なども手がけて才能を認められていきます。家康直轄領の管理を任されたり、関が原の戦いでは秀忠隊の補給線を担当したり、まさに命綱といっていい役目を歴任しました。

が、晩年というか死後にそれを全てひっくり返すほどのデカいポカをやらかします。
遺品から武田家の紋が描かれた幕や道具類が発見。長安は武田の遺臣を庇護して大名の座を狙っていた、という疑惑が浮上したのです。

合わせて、長年金山を任されていたことを悪用して、幕府に収める分をちょろまかしてたにちがいないという疑惑も当然でてきます。

ついでに「ワシが死んだら、金の棺に入れて葬ってくれ」というアホな遺言をしていたこともフェイクニュースかもしれませんが伝わりました。

実際は調べてみたら私腹を肥やすなんて証拠も見つからず、武田の思い出の品で昔を懐かしんでいただけで、大名の座を狙っていたというのも言いがかりに近いような。

ともかく、狸はぽんぽこ……ゲフンゲフン、ぷんぷんどころじゃなくかなり怒っています。

これじゃあ「冤罪」ですなんて、言えない雰囲気ですね。

 

ところが、家康の怒りはこれで収まりません。
「皆知ってて隠してたんだろ! 息子どもも同罪!!」ということで長安の七人の息子は全員斬首刑。既に埋葬されていた長安の遺体を掘り返して磔にするという怒りようです。
こわっ!

縁戚関係にあった大名たちも改易や流罪などの処分がされています。

長安は家康六男・松平忠輝の家老も兼任しており、忠輝の正室が伊達政宗の娘だったことから「政宗に金を流して謀反を企んでいたのでは?」ともいわれていますが、そこははっきりしません。アヤシイですけど。

この大久保長安事件の背後には、大久保忠隣VS本多正信・正純の勢力争いがあったとも指摘されています。

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長安事件のとばっちりで信玄の孫が伊豆大島へ流される 

この事件、武田一派の謀反!とまで大騒ぎされてしまったので、武田の幕を長安に渡したのは誰だ、と当然犯人探しがされます。
なんと、その人物は生き残っていた武田信玄の孫・武田信道でした。

信玄の次男の息子で、9歳で父親をなくして、甲府の一向宗のお寺でお坊さんとして育てられました。ずっとお坊さんだったので武田家滅亡後も生き残っていたのですが、偉くなった長安と仲良くなり、「武田のグッズ貸して」と言われて、軽い気持ちで貸したのが運の尽き。お寺も破却、信道は息子の信正とともに元和元年(1615年)伊豆大島へ島流しとなります。

ようやく疑惑が晴れたのが50年以上たった寛文十三年(1673年)。信道はすでに死に、信正が付き従った旧家臣9人とともに江戸へと帰還しました。江戸では、これも武田の旧家臣の内藤忠興(当時磐城3万5000石の大名)の屋敷に迎えられました。

70歳にして信玄の血がつながった! 

内藤忠興は、関が原の戦いの前哨戦である伏見城で祖父が討死したことで徳川内でも家名をあげており、大坂の陣でも活躍して、3万5000石もの大名になっていました。
武田旧家臣のなかでも出世頭である内藤忠興は、元の主君筋の武田信正を大歓迎。
なんと、17歳の自分の娘を、70歳の信正と結婚させるのです。
しかも、70歳の信正さん、子供をつくります。武田(織部)信興です。

武田旧家臣ネットワークはこれにとどまりません。

犬将軍徳川綱吉に抜擢された柳沢吉保という人物がいます。
吉保の祖父も武田家の庶流でした。
吉保は、信興こそ武田家の総領であるとして、自分の屋敷に招き、元禄十三年(1700年)、綱吉に奏上して、信興を旗本に取り立て、甲斐八代郡に500石の新領地を与えることに成功するのです。
そして、吉良上野介など名家と同様の「高家」扱いにしました。

武田家はとうとう復興したのです。

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信玄の娘・松姫を慕い、八王子に住んだ家臣もいた 

まあそんなインパクトの強い子孫ばかりだったわけではなく、ほとんどの人は真面目に余生を送ったようです。旗本など武士の身分で江戸時代を生き残った家もあり、現代に血が続いているケースもあります。
その中には、織田信忠(信長の嫡男)の正室になる予定(信玄が三方ヶ原へ侵攻して破断に)だった信玄の娘・松姫を心の支えとして、現在の東京都八王子市付近に住んだ人もいました。

松姫は信忠が本能寺の変で亡くなった後、出家して「信松尼」と名乗っていました。天正十八年(1590年)頃から八王子付近に住み、近所の子供に読み書きを教えながら細々と暮らしていたそうです。大名家の姫様にしては順応性が高い人ですね。
異母姉・見性院が家康に保護されていた縁で消息がわかったらしく、姉妹二人で徳川秀忠から庶子・保科正之の教育をしているので、間接的に幕政に関わったともいえます。

 

仇敵・上杉に嫁いだ菊姫は景勝と仲睦まじくやっていた? 

また、他家に嫁いでいた武田家の姫としては、菊姫という人がいます。上杉景勝の正室で、松姫とは両親共に同じ姉妹でした。

彼女は長篠の戦いで武田家の斜陽が明らかになった頃、武田・上杉の同盟のため嫁いでおり、武田滅亡後もそのまま正室として扱われています。
子供がないことからか、夫婦仲については諸説ありますが……いわく「景勝は男のほうが好きだったから冷遇していた」とか、「菊姫が亡くなる前、景勝は寺社への病気平癒を祈願させたり、名医を探し回った」などなど、今のところ評価は定まっていません。

仇敵だった武田家の姫と結婚した上杉景勝さん/Wikipediaより引用

仇敵だった武田家の姫と結婚した上杉景勝さん/Wikipediaより引用

 

個人的には「実家=後ろ盾がない女性を留め置いたのは、景勝の義心と好意によるものではないか」という気がするので、良くも悪くも大名家の夫婦らしい感じだったんじゃないかなと思います。
菊姫は秀吉が天下人になってからはずっと京都で暮らしており、同じ境遇にある大名の妻達や公家とのお付き合いをそつなくこなしていました。また、景勝の長庶子・定勝はじめ家中からの評判も良かったそうなので、肝心の旦那とだけ仲が悪いというのもありえなさそうですし。

家と共に滅びた当主、生き残って血筋や信念を伝えた家臣や女性達、良いところも悪いところも、大いに学ぶところがありますね。

長月 七紀+編集部・記

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参考&TOP画像:武田勝頼/Wikipedia 今日は何の日?徒然日記
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
歴史読本「特集 徳川幕府誕生」(2011年3月号)

 

 



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