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その日、歴史が動いた 徳川家 江戸時代

徳川義直とは? 御三家筆頭ながらなぜか将軍を出せなかった尾張徳川家の初代徳川義直

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下々の者からすると、由緒正しいお家やお金持ちの家は何かと羨ましく思えますよね。
ところがどっこい、その血筋ゆえににらまれたりいろいろ物騒な目にあったり、顔を見たこともない相手と結婚させられることもあるのですから、一概に良いともいえません。
結婚については双方の努力があればうまく行くこともありますけども、他の二つは……。
本日は名門にもかかわらず貧乏くじを引き続けた……といえなくもない、あのお家のお話をいたしましょう。

 

関が原の年に生まれて

慶安三年(1650年)5月7日は、徳川御三家の一つ・尾張家の初代である徳川義直が亡くなった日です。

生まれが慶長五年(1600年)ですから、ちょうど50歳で亡くなったわけですね。
というか秀吉が亡くなってアレコレ混乱してた時期によく子供を作る余裕があったものです。さすが子沢山の家康(ちなみに九男)。

徳川義直(Wikipedia)

義直は大坂城西の丸もしくは伏見城で生まれたといわれています。初名は五郎太丸という実に言いにくい名前でした。よくこんなんつけたなと言いたくなりますね。
元服が6歳のときなので、家康は最初から「どうせ数年しか使わない名前だし」とか思ってたんでしょうか。

 

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初代名古屋城主に!

当初は甲府藩主として任じられましたが、幼い故に現地へ行くことはなく、母親と共に父のいる駿府に引き取られて育ちました。
元服の翌年には、夭折した家康四男・松平忠吉(過去記事:イケメン爆発せず? 家康の4男があまり波乱を起こさず28歳で夭折 【その日、歴史が動いた】)の領地だった清洲(愛知県清須市)を継ぎ、そのまま新築された名古屋城へと移り、尾張国の主となります。
とはいっても、年齢が年齢ですので、実際に尾張へ入ったのは大坂の役の後でした。つまり家康が亡くなった直後でもあるんですが、喪とかどうしてたんですかね。
大坂冬の陣で初陣を果たしたものの、それはすでに戦国最後の戦いでした。
交通の要衝である尾張でもそれは同じことで、義直は戦ではなくその後、内政に取り組んでいきます。
家臣任せにせず積極的に自ら仕事をし、また学問を奨励したことで尾張徳川家の基礎を作りました。
儒教が好きだったので基本的にはお堅い人だったと思われますが、その一方で家康の形見としてもらった本や、自分で集めた本を「蓬左(ほうさ)文庫」という施設にまとめ、一般にも公開するという気前の良さもありました。
蓬左文庫は名古屋市立となって、今でも徳川美術館(尾張徳川家直属の公益財団法人徳川黎明会が運営する私立美術館)や徳川園に併設されているので、名古屋の方や観光に行かれた方にはお馴染みでしょうかね。ワタクシも一度行ったことがあります。

名古屋市立蓬左文庫の展示室エントランス(同文庫HPより引用)

 

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家康の息子ゆえに年の近い将軍家光と火花を散らす

そんなわけで地味ながらも着実に藩の基礎を作っていった義直ですが、肉親とはたびたび火花を散らすこともありました。
というのも、「俺は権現様の息子で60万石の大名だぞ」という意識が強すぎて、特に三代将軍・家光とぶつかることが多かったのです。歳にしたら4つしか変わらないんですが、それでも家光にとっては叔父さんですから、長幼の順を重んじる儒学の考えで行くと、義直は目上ということになります。

名古屋城(Wikipediaより)

また、家光の息子・家綱が神社へお参りに行くとき、幕府から「御三家の皆様も同行なさるように」との知らせがあったのですが、「無位無官の者に官位ある者がへつらうことはできない」と言って拒否したこともありました。
その頃義直は従二位・権大納言という高位にありましたから、家綱が正式に征夷大将軍もしくは自分と同等以上の官位にならないとやなこった、というわけですね。
ちなみにそれから三年後、家綱はバッチリ義直と同じ官位になっています。まだ家光の存命中だったので、もしかしたら意趣返しだったかもしれませんねえ。キャーコワーイ。
とはいえ、このくそ真面目さが良い方向に動いたこともありました。義直は身持ちの固い人で、正室と結構うまくやっていたようなのです。
残念ながら正室との間に子供ができなかったため、側室を娶ることになったのですが、戦国の「子供は多ければ多いほどいい」=「側の女性も以下同文」といった気風が強かった時代にしては誠実なほうでしょう。
ちなみにこのとき、家臣が側室をもらってくださいと言っても嫌がったので、土井利勝が幕命として側室を持つよう勧めたのだそうです。利勝もあっちこっちで大変ですね。
その後義直の跡を継いだのは側室との間に生まれた光友だったので、めでたしめでたしというところでしょうか。

 

御三家筆頭でありながら将軍を輩出せず

しかし残念ながら、尾張家の家風は真面目すぎて、江戸時代中期のドロドロした政争には向かなかったようです。
六代将軍・家宣が就任からわずか三年で亡くなったときの尾張家当主・吉通や、七代家継が夭折したときの当主・継友が将軍候補に上がったことがありました。
ですが、皆さんご存知の通り、尾張家からは一人も征夷大将軍になった人がいません。候補に上がった段階で、皆突如として亡くなってしまっているからです。
あまりにもタイミングがアレな上、この他の尾張藩主や息子達もやたらと急死や夭折が多く、きな臭いどころの話ではありません。いくら医学が未発達で乳幼児の死亡率が高い時代だとはいえ、一番環境がいいはずの藩主の一族がこの有様というのは、どう考えても人為的な理由があるとしか思えないですよね。
ようするに政敵からのスパイがアレコレしたのでは……という疑いが濃いわけですが、残念ながら「疑い」の範疇を出ません。いい仕事しやがる。
もし、尾張家にそうした狡猾な政敵に対抗できるだけのがめつさ……もとい悪賢さがあれば、一人くらいは将軍の座についていたかもしれませんね。
御三家筆頭といわれながらも、尾張家だけが将軍の輩出皆無というのはあまりにも、ねえ……(´・ω・`)
水戸家も慶喜が一橋家に養子入りしたからこそ将軍になれたのですから、ある意味ギリギリですけども。じゃあ勝ち組は紀州家かと思えば、現代では断絶がほぼ確定視されていますし。
いやはや、おエライ方々の世界はいつ何がどうなるかわかりませんねえ。くわばらくわばら。

長月 七紀・記

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参考:徳川義直(wikipedia)

 





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